つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

「成功者」の条件を考えた。

世の中の色んな流れを見ていますと、どこかのタイミングで「金持ち」がいわゆる「成功者」として前面にプッシュされることがあるようです。

 

確かに、お金があれば何でもできます。お金がなければなんにもできない。

色んな人や話が集まります。その人の周りは活発になることでしょう。

ここまでは安易に想像できるのです。

 

問題は、ここからです。

 

 どうにも最近は、「じぶんひとり」が大勝ちして大金を手にし、「自分は成功者だ!」とあからさまにアピールするケースが顕著になっている感じがします。それは無論ビジネスに通じていくのですが、どうにもそこには「先の見えない、しかし誇大な表現をして自分を上の位置に据えている」ようなものがほとんどのように思えるのです。

 

 

大きな違いは、明治~昭和と、平成・令和の成功者の違いにあります。

 

お金は頑張れば、ある一定の収入は得られると思います。

その他に運など、タイミングやセンスといったものが加味されます。

 

それで得るお金は、ほぼ独占できると思います。

現代の成功者はここまでで終わっています。

セミナーとか商材などを展開していても、それは何となくまやかしに思えてしまうのです。

 

 

決定的な違いは、「社会(世界)への貢献」だと思っています。

言い方を変えれば、恩返し、または恩送りという表現になります。

その姿として、資材や私財、自身の寿命を投げうってでも貢献しようという無死の姿勢がありました。現代では「意識高い系」として白い目で見られるかもしれませんが、先人がもたらした結果には、「現代でどれだけ稼いでも足下にすら及ばない」人たちが多くいます。

 

その貢献には、後継者といった人材の育成も含まれます。

そこには教材は含まれません。マンツーマンの姿勢こそが重要です。

もちろん、本気で何かを学びたいときには相応の教材代は必要です。

しかし、テキストだけで人は育ちません。

初心者も、中~上級者限定として謳っているいるものでも。

テキストの解釈がうまくできなければ、それは受講者の責任。

そんな軽い教育は、教育ではないのです。

 

 

個人で考える成功者とは、大なり小なり社会に貢献を続けようとしている姿勢を持った人だと感じています。そこに「どれだけお金を稼いだか」は、あまり必要ないと考えています。もちろん、お金を稼ぐのはひとつの才能だと思います。しかし「稼ぎ方を学ぶ」のか、「結果としてお金を稼ぐ」のかは、異なるものだと思っています。

 

 

 

 

今や色んなビジネスがありますが、そのほとんどは「一代」で終わるものなのかもしれません。30年・50年・100年と続くものは、逆に言えばそうないのだと認識しています。それほど、貢献は難しいことなのだと思います。お金を稼ぐことはかんたん(かもしれない)ですが、貢献はその何倍も難しい。稼ぐことにのみ執着して発信を続けている状況が長い方がもしいらっしゃったのなら、何かを見失ってしまったのではと個人的には思います。偉そうなことを書いてしまってますけど 汗

 

わたし個人は、個人事業主としてスタートさせた時期がありましたが、残念なことに結果がついてきませんでした。すべてが不足していました。そのためまた勤め人として生活しています。しかし勤め人でも、成功者になることはできると思います。そこに隔てはないものと感じています。大事なのは、やはり意思でしょう。お金に流される意思ではいけないということになります。

 

 

自分で「成功者になりたい」とは、実は考えたことはありませんでした。

ただあったのは、「(何かしらの)仕事がしたい」でした。

そのための価格設定、そのための営業活動でした。

現在の立場は、その行動あってのものだと思います。

 

 

 

以上、メモ的な、自戒を込めての日記でございました。