美しい世界をちゃんと見ているか?
夕暮れ時に電波の届くところまで車を走らせ、その帰りに写真を撮りました。
(住み込みで働いているこの場所、ド〇モさんと〇uさんが常時圏外です。)
(フラッシュ作動)
こうやって見える景色も、実は遠くから見るから美しいのでは?と斜めに見てしまいました。というのも、表面では「美しい世界を!」と叫んでおきながら、中身を見てみるとドロドロ・・・というケースを見聞きすることが多くなったからです。それは特定の分野ではなく、あらゆる分野に言えることでもあります。
(フラッシュを使わずに撮影)
現実を少し話しますと、こういった広大な自然の細部には、多くの種類の虫が生活をしています。植物だけではないのですね。ただそれは、その世界に一歩踏み入れなければ中々わからない事実です。どんないきものがいるのかも、その世界に入って初めてわかることです。
学校の授業でも習いましたが、厳密な「食物連鎖」が生きています。
わたしたち人間の生きるための行為はこれにあたるのかはわかりませんが、虫や植物、そして動物の世界でも、ドライなほどの原理原則がしっかりと作動しています。
そういったサバイバルを、実はあまりよく見たことがありません。
時折テレビ番組などで目にすることがある程度。実際にこの場所がどのように「呼吸」しているかは、正直わからないままです。ただおぼろげながらも言えることは、自身が生きるために必要な淘汰をするということが、今目にしている光景を創っているのだということ。どんなものの上に成り立っている世界なのかを、もう少し踏み込んで知っていくべきだなとひとり考えていました。
こういったいきものの考えの中には、「優先順位」というのは、ひょっとしたら存在しないのかもしれません。まさしく阿吽の呼吸といった具合で、絶妙なバランスで、人間が手に負えないようなち密さで、この世界を形成しているように思います。それに比べれば、人間同士の議論や口論など・・・と思ってしまいます。中途半端な発言でも人気を博す(または人気を得たと思い込む)人が出てくる時代となっていますが、そういった人たちは、アナログ的な意味での「自分の力次第」という世界には、踏み入れることがないのでしょうね。
牛たちの前では、人間は非力です。
そのため、知恵を使います。
牛の行動観察を行い、習性を学んだうえで、効率を求めた動きをします。
そうやって、牛との距離を縮めていきます。
牛も面白いもので、人間に慣れた牛(ある程度のスキンシップは必要です)は大きくなっても人間を怖がらずに寄ってきます。人間が怖がってしまえばそれでだめになってしまいます。知性もある程度あり(ときには賢いと感じる)、愛嬌もあるいきものを前にすると、畜産をやっていても愛着が湧いてきます。マンガ「銀の匙」にて描かれていたことが、少しでもわかります。
この世界では陰と陽がセットになっているように、美しいものと醜いと感じるものもセットになっていると考えます。そのどちらか片方だけを見てすべてを語るのは、それはやはりご都合主義になります。人間はそうやって生きてきた先進のいきものだと考えていますが、同時に献身するいきものだと思います。そこから得ることのできる悟り(気づき)は、本来の意味で、この世界を「美しく」するのではないかと思います。
駄文、失礼しました。