つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

悔しいですが、やはりお金なのかもしれません。

時事ですいません。

 

北海道新聞10月2日付朝刊で、神恵内村も核のゴミ調査応募へという記事が出ました。

住民と行政、そして議会の温度差といいますか、視点が同じではなかったということになります。

 

寿都町神恵内村も、財政はおそらく潤沢ではありません。それはこの自治体に限らず、多くの自治体が抱えている、もしくはこれから抱えるであろう問題です。今は地方だけの話に聞こえるのかもしれませんが、ひょっとすると「市」がつく地域でも、このような議論が出てくる可能性があります。それほどの問題だと思っています。

 

調査に応募する方向となった背景には、やはりお金の影響は大きいと思います。

どんなに論理や倫理を立てても、どこかで正義だと突き付けられてきたお金に流されてしまう。個人的には何とも悔しいとしか言えません。

 

 ただ問題は、この核のゴミを受け入れる場所は、ここだけでは終わらないということです。原発が動けば、ゴミはまた出てきます。そうすると、保管場所がまた必要になります。その時にはまた、この議論が出てくるでしょう。

 

また性質は異なりますが、新幹線のトンネル工事に際して出てくる要対策土の保管場所もひとつの問題です。核ほどではないですが、重金属が含まれていることから、北海道新幹線の建設に関してはその保管場所を地域の意向を聞きながら進めていくという流れになっているようです。実はこれも順調に進んでいるわけではありません。自然由来のもので、通常でもごく微量が含まれていると言われてはいますが、そういった性質の土を他所から自分のところに持ってきて積み上げることに、抵抗がないというのはなかなか難しいところです。「別にいいじゃん」と言い切る人がいるとしたら、そのほとんどが「自分のところにはその土はこないから関係ない。勝手にやってくれ」と考えていると思わざるを得ません。

 

こういった「臭い物に蓋をする」議論は、古来より敬遠されてきた気がします。

自分に関係のない話であれば、なおさらです。

しかしいきなり当事者になりますと、寝耳に水で「聞いてないぞ!」憤慨します。

今も昔も、これの繰り返しで前に進んでいないのではないかと思うほどです。

 

しかし残念ながら、「お金があれば生活ができる」というのが実際です。

個人では「そんな金いらん!」と言えても、自治体としては「貴重な収入源」になるのです。それは現実的な考えなのです。本当に残念ながら。

 

お金に屈する、という表現は適切ではありませんが、これは長年わたしたちが何を優先するかという方向性が反映した、苦々しい例であると思います。倫理と現実のバランスを取ることの難しさを突き付けています。新幹線の残土については、自治体に補助金のようなものは出ませんが、今後の環境次第ではどうなるかわかりません。それほど候補地が出てきては消えているのです。そして仮に運び込みが始まっても、そこで全量受け入れられるとは限りません。他の場所を探さなくてはなりません。それは核のゴミと同じ構図になっています。

 

 

 

皮肉ですが、テレビの中の人を中心として、解説や議論では何も方向性は変わりません。大事なのはやはり現場になります。事実を報じていくことも大事なのですが。歯痒いですが、こういった問題に関しては、テレビの議論などどこ吹く風になるのです。世論の風潮とは裏腹に、その土地では現実的な議論がどんどん進んでいってしまいます。

 

 

どうにかすることはできないのだろうか。

それは誰もが考えることだと思います。

核のゴミも、新幹線工事の要対策土も。

 

わたしたちには、たくさん考えなくてはならないことがあるのです。