うまくいかない日々はある。
2日連続で不慣れな水場の仕事をしてきました。
ただこれで終わり、という部類のものではなく、定期的に点検等を行わなければなりません。当初、水場の仕事に直面して着手したときに感じたことは「水難の相」が出ているだろ絶対と思えるほど、この問題がついてまわりました。これは現在進行形ですが、もう腰を据えていかないと痛い目を見るな、というのがじわりと感じています。
どこの誰にでも
「ずっといいことがない」
と思えてしまう期間はあります。それが時には、出口のないトンネルのように感じることもあると思います。矛先は常に自分に向けられ、やってもやっても終わらない。しかし周りは冷めた顔をしていて、自分をぞんざいに扱っている。そうしてどこかで自分の価値はどうなのかと考えるようになって、心身のバランスを崩しがちになってしまう。
新年度も早2週間が経過しましたが、「出勤初日で無理だと感じたので」と、現場をリタイアする声がネット方面から聞こえてきました。果たして、その人は「職場」をどのように見ていたのでしょうか。それとも、その人の何かが足りなかったのでしょうか。
それを評するのは、やはり難しいと思います。
わたしたちはどうしても、良いことの余韻よりも良くないことの不快感のほうを長く感じてしまうようです。悲しいことに、実際に長い期間の場合もあります。今でも飛び込んでくる悲しいニュースが語るのは、感情の抑揚もないただの事実。一体どれだけの人が悲しみ、そして怒りを覚えたことでしょう。その悲しみを生んだ人間は、この先どのように生きていくのでしょう。わたしよりも若い世代は、いのちなどゲームの残機ほどにしか思えていないのでしょうか。それはとても、悲しいです。
特定の人に対してでしか優越感を持たなかった人間でも、うまくいかない日はこの先必ず出てきます。それはすべての人間に、共通に与えられた権利のようなものでもあります。それをどのように受け止め、やり過ごすのか、がっぷりと向き合うのか。それによって今後の展開が大きく変わってきます。それが人生なのです。
環境によっては口には出しませんが、慣れないうちは「練習(演習)」が必要です。
誰でも、いきなり本番はキツいです。そもそも無理という場合もあります。
それをあたかも「自分は〇」と誇張し、相手を見下す行為も蔓延しています。
それもこれも、うまくいかないのが「いやだ」と思っているからなのかもしれません。
それでしばらくは誤魔化せると思います。うまくいかなくなってきたら、次に移る。
そうして生きていく人が多くなってきているように思います。
そして、自分が悪い、とは思わない人も。
写真にはないのですが、水場の仕事をしている際、「ホーホケキョ」とどこかで鳴き声が聞こえました。ただそれも練習中のようで、しきりに気になるところを繰り返し鳴いていました。春の訪れを告げるにも、練習が必要なのだなと感じた時間がありました。
そこには、上下もなく、うまくいくいかないもない世界がありました。
雪の下から草の芽が陽を探す光景を見ながら、自分もこうありたいと思いました。