つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

調査と捜査のあいだ。

金曜日の北海道新聞夕刊の見出しの中に、残念ながら自殺をしてしまった学校生徒にかかわる調査の報告云々という記事がありました。

 

読み進めていくと、第三者委員会による報告を自治体の首長へ提出したという旨の記事で、報告内容の概要が紹介されていました。とても悲しい事例ではあるのですが、こういったことが起きてしまいますと、第三者委員会が編成され、事実の解明に取り組みます。その後中間報告を経て最終報告へと完結させていくはずなのですが、被害者遺族と第三者委員会委員会との間に不信感(主に委員会への)が生まれ、解散するケースもあるとのことでした。

 

目の前に起きて、それが色濃く残っている状態でも、ひとつの方向に向けて進むことが出来なくなってきているということは、それもとても悲しいことだと思っています。

 

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「学生の自殺」に関しては、いじめの背景がある可能性が高いケースが多いです。

そのため、このような事例が起きてしまいますと、どうしても「捜査」を望む声が出てきますが、その性質から「調査」に留まっている印象を受けます。

 

調査も捜査も真相を調べることでは共通なのですが、捜査は特定の期間が調査をすることのようです。犯人の確保という部分を含めていますので、未成年だと犯人の確保は難しいのか。でも若年層、特に幼い世代が起こす犯罪と呼んでも差し支えない事例は増えていく一方です。これはちゃんと罪を着せるべきなのか、事例としてのみ捉えて再発防止に努めるべきなのか、正直正解はないように思えます。

 

 

 

望むべくは、いじめのない学校生活です。

ですが実際は、結果としていじめが起きているのが現状です。

目に見えるいじめ、目に見えないいじめ。

社会人対象であればハラスメント等で大問題となるはずなのですが、学校になりますと途端にトーンダウンしてしまう。この差は果たしてなんだろうとも思います。

こじつけになりますが、〇〇ガチャだと言って何かを憐れむのであれば、大人こども関係なく、平等に罰して更生させるべきだと考えてしまいます。そのためには、更生を受け入れてくれやすくなる社会を形成しなくてはなりません。経済情勢などが絡む複雑な問題だと思っているので、国が、世界が取り組むべき事業だと感じています。

 

 

 

記憶に新しい事件で、北海道旭川市の女子学生が悲しくも自死を選んでしまったことがありました。これは世間もかなり紛糾していますが、北海道新聞の記事によれば、第三者委員会の動きはどうも鈍いようです。そこに利害関係があるのかもという疑いを持ちたれても仕方ない状況のようです。

 

どのようなことを起こしても、その子を保護する保護者はいます。

その子は決して悪いことはしていないと主張することも自由だと思います。

しかし、痛ましい行為を「その自死した生徒がさせたのだ」と仮に主張していたとしたら、それは違うと思います。もしそのように考えているのだとしたら、その子に潜んでいる魔性がそうさせたのだとぼくは言いたい。原因はだいたい、その人自身にあるのです。

 

 

 

調査も捜査も、どちらも長い時間がかかります。

一方では犯人を明確にし、一方では事例を明確にします。

そのどちらにおいても現代では納得のいく術ではなくなってきているようです。

可能であれば、調査と捜査のあいだに何かあればな、と考えていました。