つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

宗教はいちどなくなればいい。

安倍元首相が選挙応援演説中に射殺されてしまった事件は風化しつつあり、代わりに犯人が育った環境にかかわっていた宗教法人(団体)への関心等が強まっています。それに呼応するかのように、その他の宗教法人(団体)への関心といいますか、嫌悪の視線が強くなっているような気がします。

 

 

 

歴史を観れば、宗教が行政や文化など、様々な分野へ深く影響を及ぼしたことは事実で、良くも悪くも地域や社会が発展していったという結果があります。昔は宗教がよい意味でうまく働いていたと思いますが、昭和の終わりから段々と宗教の「使われ方」が変わっていったように思います。

 

 

以前は通用していたものが、現代では通用しなくなってきている教義は幾つもあると思います。

 

その中でも違和感が強く残るのが、その宗教の(現)代表が神や仏といった、救いの存在であると定義されていることです。生きた神ということになりますが、それでいて悩みや病のすべてを癒すことはできず、信者の信仰心の低さを言い訳にしている節があります。個人的には、信者の信仰心に関係なく施し(癒し)を与えるものと考えていますので、あくまで個人の解釈と乖離するところがあります。

 

文化文明が進む(いちおう)につれて、宗教上の教義や神・仏といった世界に関する矛盾(受け容れきれないものと定義)が露わになってきていると同時に、その組織をどう維持していくか、どう拡大していくかのみが焦点になってきているように感じます。何度も主張しますが、宗教法人(団体)はもはや「会社」と一緒です。利益を求めるために活動していることにほかなりません。

 

 

様々ハードルはあると想定しますが、ここでいちど、「宗教」を無くしてみたらどうなのか?ということを言いたいと思います。制度上はなくなりますが、実態としては残るでしょう。そして、何かと「保護」されている状態から切り離すことで、その団体の新しい何かが見えてくるかもしれません。完全に消し去ることは不可能と考えていますが、何かしらの改革を促すことはできるかもしれません。

 

 

何が正解かはわかりません。ただ、宗教は現在とても「やっかいな」存在となっています。その「やっかい」な部分を公的に取り除くことで、宗教に対する身構え方が大きく変わるのではないかと思います。