つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

野生動物との「対話」は可能か。

新聞を開いて記事を読んでいると、野生動物がしばしば市街地に出没しては、農作物を食べて行ったり、車や電車といったものに接触したり、時には人間と鉢合わせになってしまい、人間が傷つくという出来事が起きているようです。現在は野生動物に関し「保護」の色合いが強いためおいそれと手を出すことはできませんが、その一方で「個体数」は爆発的(敢えてこう表現する)に増えており、保護だの何だのと言えなくなってきている状況にまで追い込まれています。

 

 

札幌市内で熊の出没が相次いだ時、どのような団体だったか忘れましたが、笹薮等を借り払いすることで「境界」を整備し、熊が出没する確率を下げたという実証がありました。じゃあこれをやればいいではないかということになるのですが、境界は個体数に負けるのではないかと危惧しています。境界で分けられた側に食べるものがなければ、劇的に増えた個体数は一斉にその境界を超えるのではないか、という危惧になります。

 

そのため一部報道では、個体数の増加に歯止めをかけるべきではないかという議論があがっているようです。保護推進の立場の方たちからしてみれば「けしからん」ことになるのですが、野生動物が今後も増えていけば、確実に経済は混乱へと転がっていきます。それは行政がどうにか考えろというのは野蛮な論理で、保護だけを叫んで他は何もしないというのは、現代となっては無責任になります。こういった主張をする個人や団体が多いと感じてしまうのが、極論ではありますが野生動物との「対話」を阻んでいるのではないでしょうか。

 

 

人間と動物とでは話している言語がことなりますので、言語による意思疎通はできません。しかし、時間をかけて一緒に過ごしていますと、言葉に頼らない状態で、相手の求めることがわかる(ような気がする)ようになっていきます。それでもここでできるのは、「相手の求めに応じる」程度のもので、高度な意思疎通は相変わらず難しいと感じます。そのうえで対話をしていく状態に持っていくとなると、相手の習性を利用したものにならざるを得ません。しかしそれですらもすべて解明されているわけではないので、手探りの時間が長く続くことになります。大学といった、研究ができるところで進めてほしいものですが、結果を求められる現代においては、重宝されない分野になってしまうと思います。

 

 

ああすればいい、こうすればいいというイメージは多くの人にあると思います。

「現実的な」保護するにはどうすればいいかということを、普段の行政だけではなく、選挙といった大事な局面でも一緒に考えていく必要があります。このままでは、野生動物も人間も、満足に生活が出来なくなる未来が来る可能性だけが残っています。

 

頑なな態度は(お互いの)、衰退を招くだけと感じています。