昨夜、体幹トレーニングを終えた後に飛んできた家人のひとこと。
「絶対続かないから、メニューを減らしなさい」
長友選手の体幹トレーニングの本を元に組んだメニューはこなすのに現在30分ほどかかっています。中には当然キツイメニューもあり、ぜーぜー言いながらメニューを消化する様を見て、それじゃ保たんでしょという客観的かつ冷静な判断を下したのです。
その話をされ、以前は素直に従うことはなかったのです。
なぜでしょう?
それは「これぐらいのメニューになるのが普通なんじゃないの?」という考えだったから。
メニューが少なすぎてもいかんだろうし、逆に多すぎてもねーと思っていたのですが。
もしや・・・・これって・・・・
わたし、Mってことなんでしょうか・・・・
いやいや、ドMだって言われたしね(笑)
でも、それとこれとは「違う」という考えであったことも事実。
筋トレのような基礎運動は「キツくて当たり前」というイメージしかなかったので、何を一体騒いでんの?という気持ちでした。
ここで「ようやく」わかったことは、自分の基準と他人の基準は「必ずしも同じではない」ということ。
ここではわかっているけれど、別な面ではまったくあてはめていなかったということも少なからずあると思います。でもそれを教えられることで「これくらいはアタリマエ」という価値観から抜け出した考えで物事を見ることができるようになります。それは従来の考えではない、自分にとっては一種の革命のような出来事につながるのかと思いました。
という訳で。
メニューを減らしました。
ストレッチ⇒インナーマッスル⇒アウターマッスル⇒連動⇒ストレッチという流れで行うトレーニングですが、全部で10の動作を縮小することに。
目的別の項目も4⇒2へ。
最初は4⇒3へと考えていたのですが、動作がひとつしか減らず(笑)これでは意味がないんだろうなと思ったので、4⇒2へ変更しました。
トレーニング自体も慣れるまでは1週間に3回程度に留めておき、スムーズに行うことができるようになれば、回数もセット数も増やしていく予定です。今はただキツイ動作が続くだけでしかない時間帯ですが、自分の健康等のためにはやるしかないと心に決め、頑張っていこうと思います。
「練習」ということばは、大人になってからは聞く回数がぐっと減ったように思います。
しかし、誰もが「練習」の重要性を理解している「はず」だと思います。
スポーツにしてもそう。
音楽にしてもそう。
文芸に関してもそう。
何かを創ることにしてもそう。
生きることにしてもそうだと思います。
言うまでもなく、専門の分野に関しては「センス」等も必要です。
あのプロ野球選手だって、一握りの存在であっても、練習を重ねても大化せずに終わってしまうこともあります。
でも考えて欲しいのは、その姿を見て「練習はムダ」だとか「適当にやって適当にこなす」のがいい訳ではないということです。
学生時代に何らかのサークルや部活を経験されたかたなら
「練習は嘘をつかない」
というセリフはどこかで聞いてきたと思います。
練習を積み重ねなければ本番でも相応の力は出ないと言われます。
つまり、どんなにセンスがあろうが、練習なしではその真価を発揮することは不可能だということになります。
学生時代であればこのことはアタリマエのことであり、うなずけることであったはず。
でも社会に出るとこの「練習」は影を潜め、短期間の「研修」を経て「一人前」とされ、短期間のうちに「結果」を求められるようになります。
経営者の側からすれば「研修」の期間に十分練習する機会は与えているという主張を通します。そして「毎日が試合」のような環境に一定期間で出され、結果を出してこいとハッパをかけられます。
なんというか、社会はなんと殺伐とした世界なんだろうと改めて思ってしまいます。
結果が出なければすぐにお役御免を言い渡される極端な例もあることから、精神をすり減らす人が多くなるのもわかること・・・だと思いました。
社会人として世に出て活動することは、ひょっとしたら今も昔も相応の「厳しさ」があったかもしれません。しかし現代の厳しさはには「非情さ」が入っているとしかいいようのないことだと感じることも少なくなく、以前にはあった大事なものを「切り離して」いるようにも感じました。
今や「結果」を出すことは即「生活」につながること。
そんな綱渡りの毎日を、多くの人が行っています。
それでは、その過酷さに耐えられなくなる人が出てきてもおかしくありません。
そんな世の中で生きることを全うするにはどうすればいいのか。
それは「練習」なんだと思います。
もちろん「練習」以外にも色々ありますが、根幹を担うものとしては「練習」が当てはまると思います。
仕事でも、プライベートでも、練習に当てはまる部分はたくさんあります。
その練習を重ねていって、自分の厚みをどう増していくかが重要です。
そこには「考え方の変化」も必要になってくるかもしれません。
表立っての練習は許されないかもしれませんが、仕事も練習を重ねれば、目標を達成できる日が近づきます。結果仕事を辞めてしまうのもいいと思いますが、キツくても、苦しくても、練習を重ねることによって言葉や知識、所作などに「自信」が漲り、それを見て相手も信用をしてくれることにつながるということも覚えておくべきです。
「練習」するのは何故でしょうか。
それは「上手く」なりたいからです。
なぜ「上手く」なりたいのでしょうか。
その理由のひとつとして「それが好きだから」という強い想いがあります。
なぜ「続ける」のでしょうか。
それが自分には「必要なこと」だと信じているからです。
だから悔しくて涙も流すし、感情的にもなったりする。
ゆずれない願いがあり、行きつきたい場所があるのです。
それは、誰にも止められたり、否定されるものでは、ありません。
わたしも、日々練習しています。
その理由は、ほんとうにいろいろあります。
気持ちもしっかりと固まっていなければ、練習も自然と疎かになる。
その分、遅れが生じると思うようになりました。
「練習」の対象がないという人もいると思います。
それでしたら「生きる」ことに対して練習を重ねるのもいいかと思います。
生きることほど、難しさにおいて比較できるものはありません。
練習に練習を重ねて、じぶんの人生にしかない「進化」を遂げ「真価」を発揮していく。
そのための「理由」がひとつでも見つかれば、心と体を動かすきっかけになるはずです。
これまで生きてきた40年という時間のどれくらいを果たして無駄にしてきたかはわかりませんが、これ以上無駄な時間を増やすわけにはいかないと感じました。
今の日本の男性の平均寿命はおよそ80歳。そうと考えれば残り40年です。
もちろん、それよりも長い期間生きるかもしれませんし、ぽっくりしてしまうかもしれません。
だからこそ「今」を大切にする気持ちと共に日々「練習」を重ねることで、じぶんがその人生や仕事を通して少しでも伝えることが出来たら、届けることが出来たらと思います。
その気持ちはひょっとしたら独りよがりなことなのかもしれませんが、それぐらいの気持ちがなければいけないのかもしれませんね。