昨日、そして今日と、体を酷使する時間が多くあった。
汗をかいて、腹ペコになって、腕も、足も上がらないくらいにヘトヘトになって。
昨日は外が雨の中、今日は強い日差しが射し、アスファルトに照り返しが来る中での作業だった。
午後に一度、シャワーを浴びて汗を流した。
お昼ご飯を食べた後、少し眠りについた。
その後また、五体と心とを酷使する。
「疲れ」が蓄積すると、どこかで「セーブ」をかける動きが働く。
それは「現状維持」だったりもする。
疲れが続く状況だと、自分の机廻り「しか」手を伸ばさないようにもなってくる。
特にそれが「疲れている状況」に起こりがちのように感じる。
大事な判断を下さねばならないとき、そこにはいつも以上の「疲れ」が伴っているように思う。
そこから解放されたい一心で「自分に手を差し伸べてきた」側の選択に身を寄せることも多くある。
それが決して悪いわけではない。
大事なのは「自分の机廻り」ではなく「隣の机」に手を伸ばして吟味しないまま、自分の傍に訪れたものごと「だけ」に対して判断を下してしまうこと。
極限の状態に向かって放つ言葉ではないかもしれないが「わたしは自分の机廻りで起きたことしか対処しない。対処して欲しければ、わたしの机まで来なさい」というスタンスを持っている人がいたならば、ひとこと
「それは残念だ」
としか伝えることは出来ないだろう、と思う。
わたしたちはどこかで「空っぽ」になることを怖れている。
体力も、気力も。財力も、魅力もだろうか。
空っぽになりたくないから、必死にそこを「埋めようと」する。
空っぽになることが、そんなにいけないことなのか?
ふと、そう思ってしまった。
生活していくためには○○は必要、とよく見聞きする。
それは確かに事実だが、そこに縛られると「枠」をつくることになる。
言い換えると「空っぽ」になったことがない人の主張なのかもしれない。
きょう、久々に極限まで体力を使った。
これが連日続いたので、気力もかなり減っている。
空っぽになってしまうと「何もできない」と思ってしまう。
空っぽになったことがないのに、だってそうだろう、と、思ってしまう。
「空っぽになってもいいんじゃないか」
自宅に戻ったあと、ふと、そう思った。
それはある意味
「死ぬ気でやれよ。死なないから。」
という、どこかで見聞きしたセリフに近い感覚があった。
空っぽになっても、死ぬことはないと思う。
今日ある自分の「力」すべてを使い切ったあとに何が訪れるのか。
わたしはまだそれを知らない。
「空っぽになってはいけない」という、いわば「表面」の事象の奥底、水底へすすみ、何があるのか、それともないのかを感じたいと思った。
ごはんのひと粒
やさいのうま味、そして苦味
食べもののみずみずしさ
それらがすべて、沁み込んでわたっていく。
生きていること。
そして生かされていること。
純粋に感謝しながら、ぼくは、何かが見えるまで。
~お知らせ~
9月10日、11日は宿泊を伴うボランティア活動参加のため、期間内にいただいたお問い合わせやご依頼に関する返信は12日に致します。ご了承ください。
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