つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

「権利」「自由」という身勝手な主張ほどイタイものはない。

昨日ですが、こんなニュースがネットで流れていました。

 

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突っ込みどころは盛りだくさんなのですが、この記事を通して見えてくるのは

 

「自身の利益といった求めるものを要求することは正当な行為である」

 

といった、「アタリマエの権利だ」という、ちょっとはき違え?な社会意識でした。

 

 すべてがすべて、間違えていると言いたいわけではありません。

 

ただここ数年で想うのは、「権利だ」「自由だ」と主張してはぺんぺん草も生えないような荒らしっぷりをしていき、それを「正当な権利を行使したのだから」と悪びれもしない人間が増えてきたこと。

 

ぼく自身も憲法やその他の法令に明るいわけではありませんが、これって正直性質悪いでしょうよ。それが影響して無くなっていくものもあるということを、この方たちは「自分のせいではない」と主張したいのでしょうね。

 

上記の記事に関しては、追悼の意味を込めた意思に対して「慰霊」の意味をまったく込めず、自身が欲する作品を手中にするために行われたことを批判しています。似たような事例としては、撮り鉄が規制線を越えて撮影を行うことと同義なのではないかと思います。

 

仮にこういったことが原因で公開を中止したとしても、その人たちは何とも思わないはずです。むしろ「このチャンスを生かすことが出来て良かった」と想っているのではないでしょうか。過去にこういった行為を行ったあとで、反省して名乗り出た人を報道などで見かけたことは一切ないのです。

 

 

 

こういった行為は、いろんなところで溢れています。

 

路上駐車する車や買い物客、神社の参拝でひとり同じ場所に長居し、ひたすらブツブツ言う人、祈りだとか儀式だとか言っては人を集めて自身のカリスマ性を美化したい人など、言い換えれば本当に様々です。

 

「権利だ」「自由だ」と言うのは問題ないと思いますが。

肝心なのは、それらにも「責任」というのは付加されます。

何がイタイかと言いますと、車で言う当て逃げのようなことをやっているから、イタイと言えるのです。自分の主張だけ通し、責任逃れをする。それは政治の世界にもありますし、スピリチュアルな世界にも存在します。そして日常にもそれは埋伏していることを痛感しなくてはなりません。

 

 

自身の幸せのためだとか、美的感覚の追及ですとか、まっとうな理由を述べるのは構いませんが、そこに付随する「責任のとりかた」はたくさん発生します。それを放棄してしまい、求めてばかりいるというのはやはりいただけないです。

 

上記の記事に関しては、「水」をまき、鏡池のようなシチュエーションをつくって撮影したと思われますが、その「水」の処理はどうしてるのでしょうか。もしかしたら「水だから大丈夫でしょ」とでも考えているのかもしれません。しかし、その撒いた水が原因で事故が起こる可能性はあります。もしそのような事態が発生した場合、水を撒いた人たちは責任を取るのか?それを管理者に求めるのか?その見解がずれている時点で、「権利」や「自由」は、「エゴ」と言わざるを得ません。自意識過剰もいいところなのではないでしょうか。

 

 

 

ドローンなども含め、どんどん自身の「権利」や「自由」を主張する人間は増えます。

しかし、自身がいくら叫んでも、それを向ける先には「ルール」があります。難しいところではありますが、ルールに当てはめた「権利」や「自由」であれば、誰も何も言わないと思うのです。そこに違和感を感じますと、ワガママのレベルになってしまうのだと思います。

 

 

 

この「クセ」は、自分を含めた誰にでもあるものだと思います。

このクセを出させない方法としては、「考える」ことにほかなりません。

欲求のみ走らせては、いけない時代となってきました。

欲求を走らせるにも、悩む必要があると感じています。

 

 

 

なんとなく、今ある制度や見解を「ななめ」に捉えていく傾向があるように感じました。

当面はそれでいいのかもしれませんが、墓穴を掘らないように気をつけていかなくちゃと想う、師走のいちにちでした。