アプリの通知で
「平成最後の9月」といった文面が送られてきました。
そういえば
よく「平成最後の」という表現を聞くようになったけれど
よく考えてみると
「いまこのとき」は、続くものではなく
常に「最後」であるということを 実は知らないでいるのだと思います
よく触れているけど 過去に
「どうしていまなのかわかんないんだけど」と
冷静に返されたことがあります そして
「きょうがだめでも 次はあるから」と
いともかんたんに流されたことがあります
しかし結局 それが最後の会話となったとき
「どこかで通じ合っているから」と
意味合いとしてはわかるけど確証などないことを信じて
過ぎ続けていく最後の瞬間を実感していなかった
その結果 その人にもわたしにも いまがあります
極端な話をしますと
ほんとうに次はあるのかということになります
明日は何らかの出来事で息をしていないのかもしれない
そんな可能性も あるのです
それでも楽観的でいたいのは
どこかで悲観的なものの見方をしたくないということなのでしょう
これまで多くの経験をしてきたはずなのに
どこかで都合の良さを優先させてしまっています
「次はない」
そう想うことで
馬力そのものが 変わるような気がします
毎日同じようなことが続きますと
そう想えなくなることも事実です
それは先延ばしと同じように
やろうと思っても、「できない」ではなく決して「やらない」のです
いまの立場でいる3年間
いつだって「最後」だということを考えると
悠長にしていられなくなります
働き過ぎと言われようと
心配し過ぎと言われようと
その瞬間を逃してしまいますと
2度とやってはこない気がするのです
その可能性を考えたことはありませんが
そこに 意思の強弱を感じる気がします
平成30年9月2日
もう、この日は再びやってくることはありません
1秒1秒 戻ってくることはありません
いつだって最後のとき
何もそこまでと言われそうですが
諦めたくない気持ちを持つように
刹那が連綿と続く時間軸に
込められるだけのものを込めたいと思います