昨日感じたこと。
それは「安定した」ということでした。
ブログ内でも綴っていますが、わたしはガラクタ整理をしています。
そして、ガラクタ整理で仕事をしていこうと思い、個人事業主になりました。
過去に何度か行っていたものの、今年に入ってからの出来事は、ガラクタ整理をして初めて大きな壁にブチ当たりました。
それはもう苦しくて。辛くて。投げ出したくて。
こんな人生じゃったらもうギブアップしてもええわい!
とまで思っていました。
半べそかいた状態で、再びガラクタ整理を始め、相当打ち込みました。
とことん、自分の持ち物と、初めて自分の心に向き合い、整理を続けました。
その結果、自然と出てきた言葉が「安定」でした。
この安定は「ブレない」「揺るがない」といった意味合いの「安定」です。
「安定した仕事」とは、ちょっと意味合いが違います。
今まではこの「安定」に、たくさんのものを積み重ねてきていました。
そうすることで、本来の「重さ」に耐えられなくなってきて、風に揺れるようになったのです。
それが「自信のなさ」や「不安」そして「恐怖」の類になったんだと思います。
ガラクタを減らしていくうちに、チキンな心が顔を見せ、駄々をこねるような抵抗をはじめました。それはもう「集中を逸らせる」ことに特化した抵抗です。これまででしたら、途中で面倒になって投げ出して、これまでと変わらぬ生活を送っていたことでしょう。
それを今回は、途中で投げ出さすに、やり切りました。
これはもう、自信を持って言うことが出来ます。
ずっと前から抱えていた心のしこりを「ガラクタ整理」で取り除くことが出来ました。
結局、自分を癒すことが出来るのは自分でした。それがわかりました。
他(外)に求めても限界があるとわかりました。他(外)に頼っていても、肝心の「自分」が本気でなければ一切の無駄です。それがわかるのとわからないのとでは、大きな違いになるのかもしれません。
そしてひとつ、気がついたことがあります。
それは「誰に」言われたか、ではなく「何を」言われたかが重要。
以前のわたしは「人」に惑わされ、流されていたことに気がついたのです。
もちろん「人」は大事です。
でも「落とし穴」でもある、ということなのです。
「この人の言うことは信用できる」というのも、限界があるということです。
「この人がいないとだめだ」というのも、限界があるということなのです。
人にこだわり過ぎてしまえば、それがブレーキになったり、ネガティブな感情を増殖させたりするのだと思いました。
じぶんのこれまでを捨てて、何かに頼ることほど悲しいことはありません。
だって、これまで積み重ねてきたご自身の人生の凄さを一番よく知っているのは、その人自身だからです。
いまは何も光が見いだせず、虚無な時間しかないという方でも、これまで生きてきた「歴史」があるなら、必ずそこから抜け出すことが出来る「チャンス」があります。
そのチャンスを前にしたときに、怖気づくかもしれません。不安になるかもしれません。希望や期待と一緒に、恐怖も入り混じったわけわかんないことになるかもしれません。邪魔が入るでしょうし、他の誘惑も出てきます。それは何故かというと、気づかせたくない、気がつきたくないという心理が働くからです。そこをするっと抜け出すことが出来たとき、何も不安になることはなかったと知ります。恐怖もないんだとわかります。
不安も恐怖も「ガラクタ」でしかありません。
それを整理できたときにこそ、ガラクタ整理についてわかっていること以上の「展開」が、その人の下にやってくるのだと信じています。
安定という状態を実感して初めて自分のガラクタ整理がここまで進んだという実感を得ることになりました。今のわたしには不安も恐怖もない。その反対の期待や希望もない。
いまあるのは「それが自分の人生にとって必要なこと」のみ。
それがいまの自分にとって必要だと理解したのですから、進むだけです。やるだけです。
わたしは、すすみます。
わたしは、やります。
ガラクタ整理を掲げて。オラクルカードを引っ提げて。自然の中に身を置いて。
覚悟とも決意とも違う、力が入っていない、かといってゆったりともしていない自然な姿勢を、いつの間にかとることが出来ていました。