つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

じぶんのことをわかっているようで実はわかっていなかったことの典型。

勤怠の連絡を、2日連続でしてしまいました。

 

 

疲れが溜まっていると自覚していたものの、その「程度」を推し量ることが出来ていませんでした。

 

 

 

 

結果。

 

吐き気をはじめとした体調不良にはじまり、からだの循環が滞るということになり、呼吸も胸から上でしかすることができず、いつの間にやら追い詰められていたような感覚になってしまいました。

 

 

 

さきほど治療を受けてきたのですが、頭・腰・足が固まっており、呼吸に影響を与えていたようです。食欲はあったのですが、それは感覚的なモノであったことを思い知らされました。何歳になっても、自分の事はいまだに理解することは難しいようです。

 

 

 

 

2日間、仕事に穴を空けてしまいました。

 

出社した際は、お叱りを受けるでしょう。

 

 

 

ミスを恥じないようにと思いながら過ごした1ヶ月でしたが、自分が思うよりも緊張を抱え、重いものをさらに上乗せして背負っていたかのようです。これはかつて抱えていた自分自身の悪い癖であり、脱却しなければならない枠でもあります。

 

繁忙期は、まだ始まったばかりです。

怖れは、確実にあります。

焦りも、確実にあります。

惨めさも、確実にあります。

 

その中で、どのように過ごしていくか。

それが、今いる場所での、今後の自分を形作っていくのだと思います。

 

 

 

大きく崩れてしまった以上は。

次からどうするか?というのを真剣に考えなくてはなりません。

そうしなければ、また同じ展開を招いてしまうからです。

そこから「どうにかする」ことをしていかないと。

いまここで、仕事をすることを選んだ意味がなくなってしまうような気がします。

 

 

 

すべて劣っていることは、仕方ない。

以前のような、エネルギッシュに動くことはできないのだ。それも仕方ない。

 

それを認め、それを把握し。

 

そのような変化を経てきたこころとからだでいま何ができるかをしっかりと考えよう。

 

そうしないと、折角の頑張りが無駄になってしまうから。

 

 

 

 

 

 

らしさを見せていこう。

 

泥臭くてもいいじゃないか。

 

それがずっと続くわけじゃない。

 

祭のあいだだけ。

 

 

 

 

祭は参加している側から見ると楽しく見えるが

 

裏方は分刻みのスケジュールで半端なく忙しい

 

その強烈な渦中をしっかりと過ごすことが

 

次の可能性を見せてくれることにつながることを信じよう

 

命を取られたらそれまでと思えばいいじゃないか

 

もう一度

 

楽しもうじゃないか?

 

 

 

 

 

 

いってこい。

 

うん。いってくる。