つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

日常こそ「行」なり。

疲労度が上下するのに連動して、感情も上下しています。

連日の暑さも加わり、なかなかに大変な1週間です。

 

誰にもその日1日でやらなければならないことがありますが、それが他の人との足並みが揃うかというのはまた別な話になり、悩みどころになります。

 

しかしその反面、他人のことばで気づくことが多くなります。

 

 

 

その訪れは、ふいに起こります。

 

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 何かが起きるときというのは、何かに気づくときなのだと思います。

つまりは、自省を含めた、あらゆることです。

 

自分の外に責任とか原因を置くのではなく、自分の中に何かがあるのか?という問いを起こすことが大事なのではないかということなのです。

 

「自分はいま絶頂の時期にあるのだから、自分に原因があるはずない」

 

このままではないと思いますが、そのような姿勢で対話を閉ざしてしまう、もしくは決めつけてしまう人は少なくないと思います。その背景にあるのは、絶頂な時期を壊されたくないという思いがあるからだと思いますし、今更過ぎたことを触れられたくないという実情もあると思います。

 

 

今ならばこう思えるのです。

 

 

「それ、棚上げしてるだけじゃないですか?」

 

 

理由は「その出来事は何のために起きているのか?」を考えていないから。

論理を振りかざした感情論でバッサリ切ってしまうことが多いと思います。

 

ということは、その話は「そこでおしまい」になります。

そうなると、問題提起はそこで中断となります。

それはその後どうなるでしょうか。

 

「それでおしまい」

 

に、なったらいいですよね。

 

でもそうならないのが実際です。

 

 

先延ばしにしたことは、「いつかまたやってくる」

のです。

 

 

 

また、やってきたとき。

 

どう思うのかは想像に難くありません。

 

 

 

 

 

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気づきの材料は、実はそこかしこに存在しています。

 

それを吸収し、いわゆる「悟り」を繰り返していくには、日常をしっかりと過ごしていくしかありません。

 

 

修行という用語があります。

それはずっと、特殊な環境下にて行われる特殊なことと理解していました。

しかしそれでは、「その場」に行かないとどうにもならないことを指します。

 

それは違うんじゃないか。

 

そう考えるようになりました。

 

 

この経典を詠めばいい。

この場所でこれをやればいい。

この人についていけばいい。

 

何かしら、「条件」を設定することで「修行」の価値というものが形成されます。

しかしながら、それを勧める人が言うところの「成仏」をはじめとした「境地」については、誰もが見届けたという実例はありません。

 

だってそれ、無理ですもん。

 

 

生きている間は無理だと思います。

言い換えれば、人間である限り無理だと思わざるを得ません。

きっと、そんなふうにできているのだと思います。

 

 

だとしたら、そのような考えはいっそ捨ててしまって、日常に目を向ける。

何でもないと思えることを、実直にこなす。

疑問を持ちながらも、迷いながらも、思いながらも、着実にこなす。

そのほうが、結局は「近づける」のではないかと思っています。

 

 

 

毎日いろんな考えが頭の中に入ってきます。

処理しきれない日々もまだまだありますが、どうにかこうにか落ち着いて、ひとつひとつを大切に受け止めることが出来るようになりたいなと思った、夜の青空がきれいな日でした。