「考える」「ことばにする」は、「やりたいこと(だけ)をやる」には不可欠な要素です。
きょうの札幌は朝から雨が続き、夜には雪になる予報です。
予報では先日の30cm降雪クラス。
また「ドカ雪」レベルです(汗)
温泉がある登別市も既に大雪という報道が流れていたり、高速道路が軒並み事故で通行止めになったりと、想定外の出来事が起きている状況です。連日の好天で夏タイヤに交換したという車も少なくない中、まだまだ雪の脅威は残りそうです。我が家のタイヤ交換は4月中旬以降(遠出をする可能性もあるため)になりますが、変わらず安全運転に努めていきます。
きょうは昼寝をしてしまった。
というか、力が抜けて何も出来ないでいた。
昨日でてるみくらぶの件が決着つきそうだからか?
確かにあれでからだの緊張感はかなり緩みました。
そんなわけで、いまパチパチときょうの日記を書いております。
そして先ほど買い物をしにスーパーとコンビニに寄りました。
そうしましたらコンビニの店員さんが見慣れない顔。
名札を見てみると「トレーニング中」の文字が。
この時期に増えてくる「新人さん」の登場でした。
この新人さん、まだ業務には慣れていないようで、レジをお願いした際にレジカウンター横にある惣菜をひとつ注文したのですが、どうやらレジの打ち方がわからないらしく、ヘルプを呼んでいました。その後は無事にお会計となったのですが、緊張感丸出しといいますか、かなり緊張しているんだな・・・というのが伝わってきまして。
その理由はといいますと、お箸は入れ忘れている、惣菜についてくるソースの類やおしぼり(お手拭き)などが見事に入っていませんでした(笑)また、よく見る流れではお会計の後に商品が入った袋を渡し、終了となるのですが、この順序が逆になり、こちらが「え!?お会計は!?」と焦ってしまったほど。ちゃんとお会計は済ませましたが、「ありがとうございました」の声にも震えが混じっていましたので、ある意味仕方のないことでもありますし、微笑ましいことだとも感じました。
誰もが最初からプロではありません。トレーニング(研修)を経て1人前になり、その後はいろんなことを吸収しながら独自のセンスを磨いていきます。
ちょうど先日ファストフード店に行った際も、レジの担当のひとは研修中のひとでした。
そのため注文受けやお会計にある程度時間がかかるのは想定していましたし、それはある意味仕方のないことだと受け止めていましたが、ちょっと考えてしまうことが目の前で起きました。
実はそのお店の優待券を持っており、お会計はその優待券を提出して支払う算段でいました。現金の負担はなく、すべてその優待券で充当できるものでした。ところが、レジに出てきた金額が¥200。この時点で「おや?」と思い、優待内容に入る商品の注文なので、お金はかからないはずですよと申し上げたのです。
そうしましたら、ちょっとお待ちくださいとレジのかたが話し、他の社員さん(アルバイトかもしれませんが)に声をかけました。その時に、「ああ~」と思ったことは。
その新人のかた、何をどう話せばいいかまったく理解できていなかったようで、発したことばがまったくことばになっていませんでした。つまり「何がわからないか」も、伝えることが出来ていなかったのです。
かろうじて動いているのは指。その他は、おろおろしているだけです。
ただ、呼ばれたひとはことの次第を理解したようで、早々にレジの内容を訂正し、お会計も無事終了しました。
このような光景を見て思いましたことは「考える力」と「言葉に変えていく力」が、弱くなってきているということでした。
これはぼくの印象ですが、いまコミュニケーションの大半は「話す」よりも「打つ」です。言葉にするよりも「ことばを打って造る」ことのほうが多いと感じています。もちろんそのどちらにも考える力、考えたことを言葉にしていく力は必要なのですが、だんだんと世の中にある便利さがもともと高いクオリティを持っていた力の質を下げてきているように感じました。
また、「直観(直感)」ということにもフォーカスがされています。それは反面あまり「考えない」ということにもつながっていきます。ちょっとこれは、怖れになるんじゃないかと見ています。そして、堕落につながるとも見ています。
それと同時に懸念していることは「やりたいことだけをやる」ということばが先行しすぎていること。このことばがどれほど理解されているか、正直疑問です。
いまの日本であれば「やりたいことだけをやる」人生でも、生きていける(そうそうダメなケースは起きない)と思います。その理由は、環境の差にあります。ただ、その環境も地方によってはその度合いが大きく変わってきます。その中で「やりたいことだけをやる」というのは、実はすごく大変なことだと感じています。
こういったタイトルの本を、ほんとに多く見かけます。
そしてそこから感じ取るメッセージとしては
「やりたくないことはやらなくていい。自分がキラキラ、ワクワクすることだけをやりなさい」
というふうに聴こえます。
しかし、上記のようなことを言っている本を実際に読んでみると
「やりたいことのためにはやりたくないことも出てくる。大事なのはやりたくないことをやりたいことの実現に結びつけるための大切なプロセスであると理解し、自分の中で組み立てていくこと」
といった主旨のことが書いてありました。
それには賛成、というか、それが普通だろうと感じたのが正直なところです。
そして、危険だなと思ったのは
「やりたいこと」と「やりたくないこと」を、区分けしてしまうこと。
そんなことをやってしまうから「わたしは○○がやりたいの。そんなのはやりたくないの」という認識になってしまうのではないでしょうか。
加えて言えば、人間は常日頃から「考える」いきものです。
まったく考えていない時間など、1日のなかでもほんのわずかだと言われています。
直観(直感)というのは、およそ無意識下で起こるものだと考えていますし、そう捉えていますが、その得た直観(直感)がほんとうに無意識下で起きたかどうかを歯牙にもかけず無抵抗で受け入れている傾向が強いです。それで当人は狂喜乱舞(言い過ぎ)しているのですが、それが周りにはあまりいい影響を及ぼしていないことが多いのが実情です。
なんだろ、「感覚」を研ぎ澄まして「キラキラなものを受け取る」といったようなことを公然と言ってのけ、実践をしているひとたちはごまんと、いや、腐るほどいます。が、人間は考えるいきものである以上、「考える」行為を放棄しては元も子もないだろうというのがこの時点でのぼくの主張です。つまりは「感覚」だけに頼り、依存し、「じぶんがやりたいこと」「じぶんがキラキラすること」に固執する。その直観(直感)も、歪んだものの上に成り立っているものであるので、それは本質とは異なる。しかしながらそれを本人は理解しようとしない。という、何ともバツの悪い展開が生まれてくるのです。かつてはそのような場所にぼくも身を置きましたが、かろうじてその場所から離れ、俯瞰して見ることで、ようやくその状況、環境、そして心境がわかってきました。
ひとはこの世界で生きていく以上、考えるというのは必要不可欠な行為であり、必要最低限の義務であります。いや責務かもしれません。その行為を「面倒」のひとことで放棄しながらも、相手の「考え」を否定したり非難するのは、たとえ○○の自由があったとしても、それは正当な行為ではありません。考えることがたとえ苦手であったとしても、とことん考えなければならないときがあります。それを言葉にしないといけないときもあります。「わたしは考えるのが下手」「わたしはことばにするのが下手」と言っておきつつも「やりたいことだけをやる」とか言ってるのは、自己中心的なものでしかありません。そのための土台が必要だということを全くもって無視し、結果だけしか見ようとしないという、なんとも嘆かわしい、残念な状況に嵌ってしまうのです。こういった分野の本を読んでいくと、とことん「言葉足らず」だと感じます。何がどう足りないのかを具体的に説明することは中々難しいですが、そこに目を向けず「信じれば救われる」のようなことは、この先もう言えなくなると思います。いつまでもそれを続けていけば、二極化するだけですから。
考えることは大事。
ことばにしていくことも大事。
考えることは、イメージを具現化することも、それに含まれます。
身近なところからひとつずつカタチにしていくことで、やがて大きなこともカタチにできる。
そこにほんとうの「キラキラ」があり、「やりたいこと」があるものだと信じています。
きょうのコンビニの新人そして先日のファストフード店の新人の所作を観察しながら、ふとそんなことを考えていました。
夕方、家人のメアドあてに、てるみくらぶからのメールが届きました。
まぁお忙しいのは重々承知なのですが、今更かよーという感じです。
画面を分割して掲載。
グループ会社も倒産という報道が流れていましたね。
今後、規模が大きくなることの前触れなのでしょうが、そこに働いている人がいる以上、少しでも早く収束すればと願います。
きょうまでに読んだ本
難聴 耳鳴り めまいは「噛みグセ」を正せばよくなる 長坂斉 青春出版社 (91)
歎異抄 唯円:著 親鸞:述 川村湊:訳 光文社古典新約文庫 ※月イチ古典 (92)
こうすれば、夢はあっさりかないます! はせくらみゆき サンマーク出版 (94)
「捨てる!」技術2 「暮らす!」技術 辰巳渚 宝島社新書 (95)
あの世に聞いた、この世の仕組み 雲 黒斎 サンマーク出版 (96)