つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

「速い(早い)」「遅い」という時間的価値観は必ずしも共通じゃない。

多読をすすめていると、1冊の本を読み終えるための「時間の長さ」が気にかかることがあります。

 

 

 

ハードカバーの本はさくっと読み終えることが出来たのに、何故文庫本でこんなにも読むのに時間がかかるのだろうか。

 

そんな疑問を抱きながら読み進めていくと「速い(早い)・遅い」が重要ではないことに気がつきました。

 

 

 

 

 

1冊の本とは言っても、ジャンルは様々です。

 

小説を読むこともあれば、哲学書を読むこともある。

サブカルチャー本の時もあれば、詩集の時もある。

 

それに加え、その本に書かれている文章が「どう読めていくか」も重要になってくる。

 

 

 

そう考えると、ただ単に「早い・遅い」で基準を設けるのはちょっともったいないなと感じました。

 

 

 

 

ぼくは本を読むのが「速い」ほうの人間だと思います。

図書館でしこたま借りてきては、期間内に読み切ることもしばしばありました。

しかし今になって考えてみると、その本をしっかりと読んできたか。そこにフォーカスを当ててみると、疑問が残ります。あの時、ぼくはどんな読み方をしていたんだろうと。

 

 

 

速く読んでしまう「癖」はなかなか治らないのですが、今回の多読に関しては一応年内に読み終えるという期限を設けました。しかし、その期限を読むスピードや「自分に落としていく」作業に影響させないように気をつけようと感じながら、気になるところに付箋を貼りつつ進めています。

 

 

 

ピンポイントで焦点を当ててしまうと、どうしても「前後に読んだ本・読んでいる本」の記憶が残ってしまい、すぐに読めた、これはまだ○○ページ残っている、という時間上のことが頭に出てきてしまいます。これはひょっとすると、仕事をしていると時間的なことについて厳しく制限されていたからか、もしくは脅迫的な意味合いで「時は金なり」と教えられてきたかだと感じています。

 

 

 

今や仕事は「スピードが命」と言っても過言ではないと思います。

 

すぐに結果が出る。とか短期間でここまで!とか。

 

そんなに長い時間をかけなくても大丈夫です!と吹聴しておきながら、実際は想定していたよりも多くの時間をかけることになってしまう。というケースも実際にあります。

 

そう考えると、それだけ「はやさ」を求める背景には何があるのだろうと考えてしまいますが、それは確たる証拠のない「忙しさ」であったり、継続することが出来ない「弱さ」であるかもしれません。

 

 

 

いっぽう、この「はやさ」や「遅さ」は、人にも心理的影響を与えてしまうことがあります。

 

 

わたしはこれだけの時間をかけてやっとできるようになったことを、あの人はこんな短期間で修得した。

 

 

という状況があったとき、人はその先にその人のセンス(資質)をはかります。

そしてその人が仮に「自分よりも優れている」となった場合、その瞬間からその人との関係性に大きな変化が生じます。そこに嫉妬をはじめ、恐怖心などが生まれてもおかしくはないと思いますし、反面その人を認め、自身の更なる努力に傾けることも可能ですから、そういった事象を目の当たりにした後の自身の振る舞いというのは結構重要になってくると感じています。

 

 

 

ひとは与えられた時間やモノ、そして仕事などを「有効」に使いたいと考えます。

その「有効」のことばの奥には、ひょっとしたら他のことばがたくさん隠れているかもしれません。例えば「無駄なく」とか「予定より早く」とか「期待以上に」とか、その人によって出てくることばは違ってくるかもしれません。

 

でも思い返して欲しいのは、有効につなげる前段階として、地道な努力が前提としてあるということ。弛まずに続けてきた努力があれば、冒頭に申し上げた「速さ(はやさ)」「遅さ」は必ずしも判断基準にはならないのではないでしょうか。そして見直されつつあるのが「プロセス」です。結果ばかりを求めてきた経済社会はかなりな疲弊感を背負いました。結果を重視した経営を求めた先に何があったでしょうか?会社は発展したかもしれませんが、その中で勤めている人たちに笑顔がなければ、それはやはり自己満足でしかなく、共通した認識や価値観ではないということだと思います。

 

 

 

平成より前の時代は、人を育てることにかなりの時間を使いました。そして大事に育てました。

平成以降、その方針は大きく変わりました。費用対効果を考えるあまり、人を育てる時間も予め決められた範囲内でしか行われなくなりました。どちらが悪くてどちらが良いという判断は一概にはできませんが、わたしたちは時代から学び、そして経験に変えてゆくことが出来る存在です。そういった大切なことに目を向けず、自分だけの価値観やセンスのみであらゆることを判断していくことは、後々孤立を導くことに繋がります。

 

 

 

 

そうならないためにはどうすればいいでしょうか?

 

それは苦労を厭わず、汗をかいて動くことも躊躇せず、表面だけの評価や批判に屈せずに進むこと。

 

感情だけ重視してもダメ。論理だけ重視してもダメなのです。その両方をバランスよく調和させたうえで日々の生活を過ごしていかなくてはならない。難しいことかもしれませんが、それがたとえ「遠回りの道」であっても結局は「近道」になると感じています。

 

 

 

 

 

ぼくがいまやっている多読も、どのような展開を生んでどのような結果を生むかはまったくわかりません。無駄になるかもしれません。

 

 

それでも。

 

 

そこにはぼくに必要なもの(こと)があると信じ、必要なことだと決めてやることにしました。

そこにはおそらく、感情や論理だけでは判断できないものがあるからなんだろうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

大事なものは見えにくい 鷲田清一 角川ソフィア文庫

 

 

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