つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

なんだかんだ言って、周りは「必要な何か」を与えてくれる

果たして人生において、自分の足を引っ張り、その達成を妨げるような存在はあったのだろうか?

 

 

昨日夜、勤務先の「ら・ふも」に居る際にふと考えが浮かびました。

 

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 お決まりの定点観測。

 

 スピリチュアルとか、現実的な話の分野でいろいろと言われることではありますが、この人生の目的は「生きる」ことにあります。そしてそれを達成するために、色んな課題を「その人ごと」に設定していると言われています。

 

じゃあ、個人別で課題が設けられていたと仮定した場合、課題を援けてくれる存在が現れることも、邪魔をする存在が現れることも必然的に設定されていたとしたら、果たしてどのように考えればよいでしょうか。

 

 

仰々しい言い方にはなりますが、言いたいこととしては自分の「成仏」やら「昇天」の邪魔をしている存在というのは実は「いない」のではないだろうかということなのです。

 

だって、課題を設定しますと、それをクリアするための要因というのが出てきます。

要因を満たすためには、自分一人だけの行動ではほぼ無理です。他の存在がかかわってきます。

その他の存在の認識軸が自分と異なっていたならば、その違いにやきもきすることは想像に難くないです。そしてそれを「足を引っ張る」だの、「邪魔」だのと言ってしまい、捉えるべき視点ではないところで処理してしまいます。

 

 

極論を言えば、援けも邪魔も、「必要な何か」なのではないでしょうか。

そのように考えたとき、固定観念がひとつ消え去る感覚を覚えました。

 

 

人生は決して平たんではないことを誰もが知っていますし、これから経験する人もいます。

 

その「平たんではない」という理由はどこからくるのでしょうか。

それはざっくり言って「かんたんにはいかない」ということになります。

そこから脱却したいがために「かんたんに〇〇になる」というメソッドを信用してしまう人というのは今も昔も多いようですが、結局は自分が設定した課題に向き合いたくないという「駄々」ではないかと感じます。

 

 

物事がかんたんにいけば、誰もがその方法をとることでしょう。

しかしそれは「永遠」には続きません。

個人差はありますが、ずっとかんたんということはあり得ないと考えます。

 

 

手間がかかる理由は、必ずあると思いますし、そこにかける時間から得られるものは必ずあります。自分にとって「必要な何か」は、必ずしも前向きなものばかりではありませんが、それもすべて自分自身の受け止め方、受け容れ方次第によります。

 

わたしたちの基準で言うところの「よいこと・わるいこと」ではくくることのできない何かは、わたしたちにとって「必要な何か」である。

 

 

 

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今日の八雲町はとても天気が良く、コートを羽織って歩いていましたら軽く汗をかくほどでした。

 

また週末には天気が崩れる予報とのことですが、ここまで来ますと春が待ち遠しくなってきます。

 

3月ももう下旬に入りました。

 

引越準備も、協力隊の仕事も総まとめです。

 

 

 

この1年で得た「何か」を総動員して、後悔しない終幕を迎えたいと思います。