つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

見えないことへの羨望が心に穴を開けていく。

もはや日常にWeb情報は欠かせないものとなりました。

 

パーソナルコンピューター(パソコン)が登場してからというものの、インターネットという機能を備えてからは爆発的な成長を遂げたように思います。

 

ただ成長の陰には衰退もありまして(個人的見解)、デジタル信者が一気に増え、アナログ信奉者が目減りしてしまいました。時代の流れであり、仕方のないことなのかもしれませんが、デジタルの世界は無限のため、ずっと入っていても飽きないのでしょうね。

 

 

Webの世界は遊びだけではなく、仕事の世界(経済を指します)にも大きく貢献し、経済成長を進める促進剤となりました。

と、思うのですが、実際はどうなのでしょうね。

 その中で目立つものが現れました。

 

それは「匿名のコメント」です。

 

それはつまり、自分の身元を明らかにしない状態で相手に何かを伝えるという行為。

ネットの世界にはこれといったルールもなかったため、次第にネガティブな投稿をする傾向が多くなってきました。

 

そのコメントするとどうなるか。

コメントをされた側は少なくとも困ります。が、コメントした側は痛くも痒くもありません。なんら実害もなく、時には好きなことを言うことで結果相手を攻撃する。それを歓迎する流れも生まれたり、書き込んでいる内容がおもしろくないことを理由にいわれのない中傷を浴びせるという行為を行う理由は、自分自身が「絶対的に安全な場所」にいると「思っている」からだと考えています。

 

 

「見えない」ということの代表格は、これまでは「透明人間」だったように思います。

まさしく自分の姿を「隠して」、あれこれやりたいと思う人が増えたということです。

 

 

 

 

もうひとつ「見えない」という言葉で思い浮かんだキーワードですが、今やすっかりお馴染みとなりました「スピリチュアル」になります。

 

媒体は人間になるのですが、ありがたいお言葉の数々は、私たちには「見えない」存在のものからだと教えられます(説明を受けます)。

 

そういった文化をはじめ、風習なども世界各地にありますのでそういった行為が定着していることは事実ですが、現代はとにかくこの「見えない」存在からのメッセージをうんたらかんたらで重宝する動きがあります。

 

そのメッセージもいろんな存在からの、いろんな言葉があります。

要するに、「ひとつ」ではないのです。

 

それってどうなんだろう?と思うこともありますが、それも一種の流行で、

「ここからのメッセージはいまいちだから、ほかのところからメッセージをもらおう」

と、気軽にお気に入りの存在を変更してしまいます。

 

これは宗教にも通じてしまうのですが、結局は「自分が望むことを言ってくれる」存在こそが信じるに値する存在なのだと、無意識下で設定しているように思います。だって、いくらなんでもぼろくそにこきおろす存在からのメッセージはありがたく受け取ることはないはずです。

 

 

要は、都合のいいように使っているってことですね。

文明の利器も、偉大なる存在も。

それは結構、リスクのあることだと思ったのでした。