つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

ねこはわかってくれている(と思う)。

今月に入ってから残業が続いています。

定時で仕事を上がることが出来たのは昨日今日くらい。

それまでは文字通り朝から晩まで働いていました。

 

そのような状況だと、まず頭が冴えないです。

若いころのようにはいかないので、頭がすっきりしてくるまで時間がかかります。

そのため大事な仕事は午後に回し、午前中はシンプルな業務をするように切り替えました。

 

疲れが溜まると、食事も簡素にしたくなります。

しかし食材もあるので、夜は簡素だったとしても、昼は自炊するようにしています。

仕事とは違うことに頭を使うことは切り替えにいいんじゃないかなと考えています。

 

 

朝、起きるのが少し遅くなりました。

ルーティンのモーニングコーヒーは欠かしていませんが、眠気が勝ってしまいます。そしていいんだか悪いんだかですが、飲酒しなくてもぐっすり眠れます。

 

 

しかし、ねこには心配をかけています。

預ける時間が多くなったので、寂しい思いをさせていました。

今日はなるべく一緒にいるようにしています。

ねこはしきりに飼い主を呼び、ある程度の意思表示(クレームかも)をしてから、飼い主の近くで丸くなるか、猫鍋に入って落ち着きます。ひょっとすると、人間よりもねこのほうが人間のことをわかっているのかもしれません。

 

にんげんはにんげんのことをわかっているようでわかっていないことが多くあります。

ねこはにんげんのことば話せませんが、そのかわり何かがしっかりとわかっているのかもしれません。

 

 

勝手な解釈ですが、我が家のねこに感謝です。

私たちは揺らぐ。

韓国の選挙が話題になっているようです。

 

何でも野党が政権与党を上回る議席を獲得する見込みとのことで、確定すればいわゆる「ねじれ」が生じるとのこと。政権運営が難しくなってきます。

 

日本の政権運営もそうだと思うのですが、なかなか手を取り合ってやっていくというのができないようです。勢力というものは相対する勢力を引きずり降ろそうとするのが本職に思えるくらいです。なのでどちらの勢力も「自分たちがのし上がる」ことだけを重視していて、いざ運営をしてみると「大して変わらないじゃん」ということになりがちです。そしてまた舵取りを奪われてしまう。この繰り返しの歴史だと思います。

 

端から見てると「なんだかなぁ」と思うことしばしばなのですが、この繰り返しを見ているとなんだか意欲がなくなってきます。自分の仕事以上に意欲がなくなる。大きな物事の運営でそれがあってはならないのですが、それはもう魔法にかかったくらい。逆にそうすることで運営しやすくすることを狙っているのではと勘ぐってしまうほどです。

 

 

わたしたちは「揺らぐ」いきものだと思います。

 

何も選挙の話だけではありません。恋愛もそうですし、仕事だってそうです。

分岐点があってもなくても、何かの機会に揺らいできたはず。

それがいいか悪いかではなく、これが人間なんだという自覚をもたらすものです。

この揺らぎを自覚することで、少し世間の見方が変わるかもしれません。大きく変わっていくには、もっとたくさんのひとたちの自覚が必要になりますが。

 

韓国は日本の隣国です。これまでああだこうだ、そうだそうじゃないと言われ続けてきましたが、無用な争いは避けたいとの気持ちが強くあります。

 

穏便に無難に、安穏に安全に、物事が進んでくれることを願うばかりです。

責めるなら責められる覚悟をせよ。

まさしく、である。

 

急激に他人を責める光景が増えた。詳細を見ることまではほぼしないが、どのようなことでも発端となり、責める側と責められる側に分かれてしまっている。

 

どうしてそんな構図が出来てしまったのだろうと考えるが、まとめてしまうと社会が病んでしまっていることに他ならない。この様相を誰かが戦争と表現した。まさしくだと思う。

 

 

しかし不思議なのは、「責められてあたりまえ」「責めてあたりまえ」な風潮があるということだ。「あたりまえ」となるとちょっと感覚が違うような気がする。今のような風潮だと、あたりまえという表現を無理やり当てはめているように感じてしまう。なんとなくだが、責めるという点における沸点が大きく変わったということになるのだと思う。加えて匿名性が拍車をかけており、それはもう無双状態である。これでは責められる側はたまったものではない。

 

反面、責める側は自分が「責められる」ことを想定していないような気がする。

もっと言えば「自分が責められるはずがない」と考えているかもしれない。

要するに、「責められる要素はない」と考えているようなものである。しかしながら、実際はそうならないのが常である。そういう時に限って、その人は自分が被害にあったことをことさらアピールする。なぜなら「責められるべき存在ではない」からだ。そうなるとこの世界には「責められるべき」人がいて、「責めるべきではない」人がいるということになる。それは違うのではないだろうか。

 

 

自覚の話も少ししたが、責める以上、責められる自覚を持つべきなのだと思う。

そうしなければ、この世界は荒れていくいっぽうである。

今こそが世紀末なのかもしれない。

現代は以前よりもずっと、息苦しくなっていると思う。

 

 

その自覚はほんとうか。

新聞を読んでいたら「自覚がないことを自覚する必要がある」といった文章を見かけました。哲学的に聞こえますが、とてもうなずけます。

 

 

昔からかもしれませんが、「自覚しているようで実は自覚していない」人たちは結構いると思います。その認識のもとでいろいろとやってしまったがために、はき違えたことによる大きな弊害を生みます。その渦も同調する人、疑問を抱く人などに分かれて、日々論争となっています。

 

自覚する、ということは、実は結構難しいことなのかもしれません。

 

何となくですが、「恥ずかしい」からではないかと、個人として考えます。

 

 

人は「自覚」することに対して、かなり潔癖な、そして「ステータスの高さ」を付与しているように思います。そうすることで、完全無欠を表現したいんですね。そして負けを認めません。しかしながら世間ではそうもいきません。かんたんに牙城は崩れます。自覚も崩れるかと思ったのですが、自覚はそのままに責任の所在を相手に背負わせてしまいます。その理由は自分は悪い存在であってはならないからです。こうなってくるともはや自覚とは何ぞや、という感じになってきます。もともと自覚とはそのように使われるべきものではなかったはずなのですが。

 

自覚は、「悟り」と、同義に思います(拡大解釈)。

なので、自分は自覚している!と謳っている人は、まず疑うべきだと思います。

自分は悟っている!となると、相当色眼鏡で見られます。つまりはそういうことです。

 

現代はいろいろと自称する人たちが多くなりました。その自称は自覚というものの外堀を埋める素材になっています。そこには狙いがあります。そこを見抜いていく必要があるのだと思います。

その毎日は過去にはない新しい日々。

おなじような1日、と表現してしまうこともあるのですが、目を凝らしてみてみると実はおおまかな表現としての「おなじ」であり、実際には違うということがわかってきます。

 

たとえば忙しい日々は誰にでもあります。忙しい日々と表現してしまえば、どこをどうとっても同じになります。ケースにもよりますが、そこから掘り下げていくこと、具体的にどんなことがあったのかをつぶさに見ていくことで、忙しい日々の詳細がわかってくるようになり、伝わってくるようになるのです。

 

今月に入ってから、文字通り忙しい日々を送っています。

平日はほぼ残業です。早出もあれば残業もあるという毎日を過ごしています。

それだけで片づけると、同じような日々になってしまいますが、中身を見ていくとその日その日で内容が異なってきます。ということは、同じような日々でも、実際は独立した1日であるということがわかってきます。そうです。1日とて同じ日はないのです。

 

ただ、感覚として、同じような毎日を過ごす、というのはあります。そう感じてしまうのは、勿体ないか、またはかわいそうかのどちらかになります。その人だけが生み出せる特別な1日をそのように片づけてしまうのは、本当に残念でなりません。そうならないように祈るのみですが、それを後押しするのはほかならぬ自分自身になるのです。

 

 

 

明日も明後日も忙しいことはわかっています。

その中でも、どのように1日をやりくりしていくか。

身体よりも頭が疲れていますが、頭の中は明日のシュミレーションでぐるぐる回っています。

大事なことが政治家からは聞こえてこない。

坂本龍一さんの特集を見ている。

 

 

 

 

ふと、大事なことはいつも政治家以外の人からしか聞こえてこなかった気がする。

 

それは間違いなのだろうが。

 

でもそれくらい、政治家が発端となる重要なことは聞こえてこなかった。

 

それほど悲しいほどはない。

 

大事なことはいつも政治家以外のところから聞こえてきた。

 

自然だってずっと訴えてきていただろうに。

 

 

 

政治家は、政治家はわたしたちとはまったく異なったいきものなのかもしれない。

 

その人たちを動かすのは、容易ではないのかもしれない。

 

政治家だけじゃなく、そういった性質の人たちはたくさんいる。

 

その人たちに、大事なことをどうやって伝えれば伝わるのだろう。

 

正解を探しているうちに寿命を迎えそうだ。

変えることとは、都合のよいこと、都合のわるいことを含めて変えること。

いろんなニュースや各種報道を見ていると、変えることに賛成している人と反対している人とに分かれていることがよくあります。昨今では、賛成するひとの意見の流れとしては、「時代に反映されるべき」というようなものである一方、反対する人はやや建前的なことで反対している印象が残りました。

 

 

そこでなんで変えることに賛成、または反対しているのだろうということを考えると、賛成する側は社会における問題解決をすることで、よりよい社会、または世界にしていくという大まかな目標があると思います。実際の目標はご自身における環境の変化、認知の変化等になると思いますが、小さな一歩が国や世界を動かす可能性があるかもと考えると、とても大きな行動であると言えます。

 

反対の側を見ると、理にかなっているものもあれば、「イメージが悪くなる」や、自身の仕事に影響しそうだからと反対するケースが見られました。つまりは「足元が危うくなる」ことを恐れてのことになるのだと思います。こうして明確に分かれてしまうのは、今も昔も一緒なのかもしれません。

 

 

しかし、その反対しているひとたちでも、別の問題においては「賛成」している可能性があります。その理由はずばり「損か得か」だと思います。一方では変わることに反対し、もう一方では変えていくことに賛成しているとなると、矛盾しているような矛盾していないような、ちょっともやっとした気持ちになります。変えていくべきものと変えないほうがいいものとがあるのはわかりますが、現在のその行動の根底には、あまり素晴らしいとはいえない理由がはびこっています。社会や世界につなげていくには、ポジティブなこともネガティブなことも、変化していくことを受け容れなくてはならないのではないだろうかと思うのです。

 

 

世間は何かと「変える/変わる」ことを求めています。

反面、変わって欲しくないものも有しています。

昔からのものをそのまま変えずに残していくのは難しいです。

時代に合わせながら、変えずにいるのではなく、その中でも、変えないところと変えていくところに分けていき、残していくこともできるのではないだろうかと、ひとり考えていました。

すっかり。

昨日はブログの更新を忘れてしまいました。

 

すでに何度かブログの更新が止まっていますので慣れてしまいましたが、続けようと思っていて、その一方で止まってしまうという現実を受け止めることに慣れていません。昨日の更新はすっぽり抜けていました。今年度の仕事量は相当なものだと実感しています。

 

連続更新はまたここからはじまりとなりますが、気負うことなく、何かを狙うことなく、書くことが好きだというスタンスでいこうと思います。

 

金曜日です。台湾で大きな地震があり、沖縄に津波が押し寄せるという「想定していない」光景が目に入りました。被害に合われた方たちにお見舞い申し上げます。明日は我が身と思い、日々の準備を怠らず、どのような状況でも身体を動かすことが出来るようにしたいと思います。