まさしく、である。
急激に他人を責める光景が増えた。詳細を見ることまではほぼしないが、どのようなことでも発端となり、責める側と責められる側に分かれてしまっている。
どうしてそんな構図が出来てしまったのだろうと考えるが、まとめてしまうと社会が病んでしまっていることに他ならない。この様相を誰かが戦争と表現した。まさしくだと思う。
しかし不思議なのは、「責められてあたりまえ」「責めてあたりまえ」な風潮があるということだ。「あたりまえ」となるとちょっと感覚が違うような気がする。今のような風潮だと、あたりまえという表現を無理やり当てはめているように感じてしまう。なんとなくだが、責めるという点における沸点が大きく変わったということになるのだと思う。加えて匿名性が拍車をかけており、それはもう無双状態である。これでは責められる側はたまったものではない。
反面、責める側は自分が「責められる」ことを想定していないような気がする。
もっと言えば「自分が責められるはずがない」と考えているかもしれない。
要するに、「責められる要素はない」と考えているようなものである。しかしながら、実際はそうならないのが常である。そういう時に限って、その人は自分が被害にあったことをことさらアピールする。なぜなら「責められるべき存在ではない」からだ。そうなるとこの世界には「責められるべき」人がいて、「責めるべきではない」人がいるということになる。それは違うのではないだろうか。
自覚の話も少ししたが、責める以上、責められる自覚を持つべきなのだと思う。
そうしなければ、この世界は荒れていくいっぽうである。
今こそが世紀末なのかもしれない。
現代は以前よりもずっと、息苦しくなっていると思う。