つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

その自覚はほんとうか。

新聞を読んでいたら「自覚がないことを自覚する必要がある」といった文章を見かけました。哲学的に聞こえますが、とてもうなずけます。

 

 

昔からかもしれませんが、「自覚しているようで実は自覚していない」人たちは結構いると思います。その認識のもとでいろいろとやってしまったがために、はき違えたことによる大きな弊害を生みます。その渦も同調する人、疑問を抱く人などに分かれて、日々論争となっています。

 

自覚する、ということは、実は結構難しいことなのかもしれません。

 

何となくですが、「恥ずかしい」からではないかと、個人として考えます。

 

 

人は「自覚」することに対して、かなり潔癖な、そして「ステータスの高さ」を付与しているように思います。そうすることで、完全無欠を表現したいんですね。そして負けを認めません。しかしながら世間ではそうもいきません。かんたんに牙城は崩れます。自覚も崩れるかと思ったのですが、自覚はそのままに責任の所在を相手に背負わせてしまいます。その理由は自分は悪い存在であってはならないからです。こうなってくるともはや自覚とは何ぞや、という感じになってきます。もともと自覚とはそのように使われるべきものではなかったはずなのですが。

 

自覚は、「悟り」と、同義に思います(拡大解釈)。

なので、自分は自覚している!と謳っている人は、まず疑うべきだと思います。

自分は悟っている!となると、相当色眼鏡で見られます。つまりはそういうことです。

 

現代はいろいろと自称する人たちが多くなりました。その自称は自覚というものの外堀を埋める素材になっています。そこには狙いがあります。そこを見抜いていく必要があるのだと思います。