つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

ちゃくちゃくと、すすんでいる。

きょうから行われるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本対キューバ戦をテレビで鑑賞しているのですが、これがまたハラハラドキドキします(汗)。

 

北海道日本ハムファイターズ中田翔選手がまさかの盗塁を成功させたり、東京ヤクルトスワローズ山田哲人選手が打った打球がホームランではなく2ベースヒットと判定されたりと、何かと落ち着かない状況が続いていましたが、比較的リードをしているのでやっと少し安心してみることが出来ています。

 

 

 

この試合が行われる前に流れたニュースを見ていると、高校の筆記試験が行われたといったニュースが流れていました。ぼく自身の思い出を話すと、確か受験日の朝、かつ丼を食べた記憶が(笑)。これもささやかなゲン担ぎだったのですが、胃がもたれることなく受験を済ませ、願書を出した高校に無事入学しました。

 

 

 

世間と言うか、世の中のスケジュールは春というか、確実に新年度に向かって進んでいるんだなというのを改めて実感。こういった時期にはこれまで続けてきたことが収束に向かうこともありますし、新しく芽吹くということもあります。何かしらの大きな変化や流れが否応なしに起こるので、急激な忙しさ等に見舞われる可能性も高くなると思います。

 

 

 

昨日は歩いた、という実感があり、きょうもいい天気であったため、近所にある北海道神宮を訪れることに。現在特定の宗派を信仰はしていませんが、神道というのは一般の宗教にあるような「頂点」となる存在を信仰する必要がないのが特徴。八百万の神という存在(のようなもの)に対し、純粋に感謝を述べるにとどめるというのが今の時代には憎らしいほどすがすがしいものだと感じています(それでも多少の御願い事はしてしまいます)。

 

祖母が亡くなってから、1週間ほどしてから参拝しようと考えていたものの、結局1ヶ月以上の時間が経過していました。それも仕方ないことだし、いまこうやって行こうと思ったということで良しとしようと思いつつ、アスファルトとツルツル路面の不安定な道を歩いてきました。

 

 

 

 

車道は雪がすっかり融けてしまい、アスファルトが顔を出しているいっぽうで、歩道はまだまだ厚い雪(というか氷)に覆われている所も多く、中には雪解け水が水たまりをつくっている場所もあるため、足元に注意しながら歩かなくてはなりません。滑り止めの砂も撒いてはあるものの、滑りやすく不安定な路面であるため、車の行き来に注意しながら歩きました。

 

神宮の境内、参道等はもう少しで地面が見えるかというくらい。木々の周りはその熱で徐々に雪が無くなってきていました。きょうは風が多少吹いており、肌寒さを感じた1日ではありましたが、その空気を感じることに心地よさを感じていました。

 

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もうすぐ。(本殿のほうを向いて撮影しています)

 

 

 

その後、距離を伸ばしてスーパーへ買い物に。

足取りは細かくなってしまいますが、ゆっくり歩くことに集中して歩みを進めました。

 

 

よく車で通る道も、歩いて通ってみると色んな発見があります。

新しいマンション、新しいお店、この家が空家だったりなど、知らなかったことが次々と出てきます。一定の速度で同じところを確認していたとしてもわからなかったことが、ペースを変えることによって目につくということは意外にもあるもの。こういった視点を忘れないようにしようと改めて感じた瞬間でもありました。

 

 

 

 

そしてスーパーで買い物を済ませ、両手に袋を下げて無事帰宅。

不安定な路面であったため、昨日とは違った疲れを感じました。なんだかエクササイズをしているような気分でした。

 

 

最後はひといきの珈琲。

先日SNSで見かけた、近所にある「りたる珈琲」のスプリングブレンドを淹れました。

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ジップバックに新鮮な豆が入っています。カウンターで注文後に密封してくれるのが嬉しいです。

 

この季節の豆は浅煎りなのですが、すっきりとして、それでいてチョコレートのようないいアロマが薫ります。札幌の珈琲専門店は比較的深めの煎りが多いのですが、これは真逆を行くもので、こういったアクセントもいいなと思いました。店内も雰囲気がとてもいいので、また寄ろうと思います。

 

 

 

 

文書作成の合間をぬって外出したことが、かえっていい刺激になりました。

普段見慣れている光景も、視点を変えることでまったく違う光景を見せてくれるんだということを改めて学んだ1日でした。

春が気持ちを変えていく。

きょうは歩き疲れました。

 

 

札幌市営地下鉄大通駅から札幌駅までの間を往復して歩いてしまいました。

 

 

しまいました、という理由は、なんといっても「春」が近づいているからです。

 

 

 

札幌圏は先週最高気温が10度に届くかといった暖かさが続き、積雪が一気に減りました(ということは、屋根からの落雪などもあるので注意が必要なのですが)。バス路線などの大きな道路ではアスファルトが顔を出し始めましたし、集中的に夜中の排雪が入ったため、歩道と道路との間にあった小高い山(または壁)はすっかりその姿を消してしまいました。まだ一部の地域では残っているようですが、これも今後の天気次第で姿を消していくことと思います。

 

 

 

きょうの札幌は決して温かいとは言えない気温ではあったものの、風は微風程度。地下鉄から降車して銀行に寄った際、銀行内がえらい暑かったので、クールダウンがてら札幌駅まで歩くことにしたのですが、これが何とも気持ちいい、心地いいウォーキングとなりました。

 

空も雲ひとつない好天気で、ひんやりと、凛とした空気がからだの表面に触れます。こういった寒さもたまにはいいなぁと思いながら、少しだけうきうきして逸る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと味わって歩きました。

 

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 雪が融け、滑り止めの砂が散乱しています。春はすぐそこまで来ています。

 

 

よくよく周りを見てみても、服装は冬用の重装備、というのはごくわずかで、誰もが「春はもうすぐそこ」といった感じの、少し軽めの服装になっていたのも印象的。社会が春を待ちわびている、というのを、何だか実感した時間でした。

 

 

 

 

 

札幌駅周辺で所用を済ませた後に、恒例となっているJRタワー展望台でデスクワーク。

ひととおり終えた後に街の様子を写真に撮ってみました。

 

 

 

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なんだか、気持ちはもう、春です。

 

 

 

この後お昼をいただいたのですが、きょうは珍しいところに行ってきました。

 

 

それは「献血センター」。

 

札幌市には献血を受け付ける施設がいくつかあるのですが、大通りにある施設は大通公園近くのビルに移転したことを思い出しまして、せっかくだから献血してこよう、ということになったのでした。

 

 

www.hokkaido.bc.jrc.or.jp

地下歩行空間(チカホ)直結です。

 

 

 

ここで献血のかんたんな流れを説明しますと

 

  1. 受付(カードを持っている場合はここで提出)
  2. 条件の確認
  3. 問診
  4. 血圧測定
  5. ヘモグロビン測定
  6. 採血
  7. 休憩の後終了

 

となっていました。

 

ぼくの場合、前回の献血が何と12年前だったことが判明(笑)。その頃とは確認する内容が格段に増えており、それだけ世情が変わったのだなと実感しました。

 

特に変わったな、というところを感じたのが問診前の条件確認のところで、HIVに関することはもちろん、特定の薬の接種や海外渡航歴などを申告する箇所が増えたこと。担当の看護師さんも仰っていましたが、以前の倍ほど、聞かなくてはならない内容が増えたそうです。

 

 

そんなこんなで

 

問診⇒異常なし

血圧⇒異常なし(札幌駅から歩いてきたため、多少血圧に変動があったものの、許容範囲内)

ヘモグロビン⇒異常なし

 

となり(ここで結構安心している)、晴れて採血ということになりました。

 

 

 

大通にある献血センターは1フロアすべてがこの施設になっており、窮屈さを感じさせません。またロッカーもあるため、かなり身軽になることもできます。

 

休憩室内は飲み物はもちろん、お菓子程度の食べ物、そして雑誌や新聞、コミック等が置いてあります(そんなにたくさんではありません)。またキッズスペースもあり、きょう伺った際には夫婦で訪れているかたもいらっしゃったので、使い勝手の良さを感じていました。

 

 

 

 

採血は、じつは結構「あっという間」でした。

 

なんだかんだ言って、トータル10分くらいでしょうか。

こちらが「もう終わったんですか?」と聞いてしまうくらいの早さです。

そこそこの時間取られると思っていたので、拍子抜けです(汗)

お陰様で、その後の休憩時間は非常にゆっくりと過ごさせていただきました。

 

 

 

 

採血が終わって休憩していると、カードに次の採決はいつごろから可能としっかり印字されています。ぼくの場合次は5月のゴールデンウィーク明けになるのですが、実はけっこうリピーターの方がいらっしゃることにびっくり。採血の後には粗品をいただいた(今回は歯磨き粉)のですが、リピーターのかたはそれ以外の粗品をもらっているようでした(スタンプカードも配布されていましたので、そちらの関係かもしれません)。

 

 

結局1時間半ほど滞在し、その場を後にしました。

 

 

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献血センターの窓から。

 

 

 

以前であれば、興味がない、という表現よりも「忙しくて行く暇がない」というように考えていたかもしれません。それが今は、どこかで余裕でもできたのでしょうか、献血にでも行ってみよう、という心境に変わっていたのです。どれくらい時間がかかるのかといった小さな疑問はありましたが、あまりせかせかしなくなりました。自身の行動の後を客観的に見てこんなことを言うのはちょっとおかしいのですが、やはり落ち着いてきたんじゃないかと思います。それは単純に「落ち着いた」という表現にとどまらず、「地に足がついた」という印象も加わっています。実際はまだまだかもしれませんが、この人(じぶんのこと)にとっては、とっても大きな変化であり、変革であるように思います。時間の使い方や予定の立て方、気持ちの持ち方などが、これまでとは何だか違う、という感覚を、ちょっとした行動を感じては思うようになってきました。

 

 

 

きょうはこれまでの運動不足を解消するかの如く歩きまくりました。

その甲斐あってか、つい最近まで感じていた「首と肩のコリ」がすっかり抜けていたことに気がつきました。何がどうなってこうなったのかはわかりませんが(笑)、結果として今日の活動は、いい方違えになったんではないだろうか、と思っています。

 

 

 

またこれから数日、書類の作成が続きます。

適度に運動して、適度以上にデスクワークを頑張らねばと思った、春が待ち遠しく感じた1日でした。

整理棚からひとつかみ。 ジャズ編 その47

 

【Series Sideman of John Coltrane

 

Thelonious Himself / Thelonious Monk

 

 

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VICJ-2116
Riverside12235


1.April In Paris
2.(I Don't Stand)A Ghost Of A Chance With You
3.Functional
4.I'm Getting Sentimental Over You
5.I Should Care
6.'Round Midnight
7.All Alone
8.Monk's Mood
9.'Round Midnight(in progress) *(CDのみのボーナストラック)


personel

 

Thelonious Monk(p)
John Coltrane(ts)
Wilbur Ware(b)


セロニアス・モンクは個性的なピアニストとして有名で、数々の歴史的セッションを残した人でもあります。
そして珍しいんのがこのトリオ編成の中身で、通常は

ピアノ・ドラム・ベース

なのですが、この作品では


ピアノ・サックス・ベース


となっていて、これはこの時代ではかなりな常識破りの編成になっています。

 

プレステッジというレーベルのチャレンジ精神なども加わってか、今回のような興味深い編成になったのかな?と感じました。

肝心のプレイはというと。

 


やはりコルトレーン、じゃなく、モンクのピアノに注目したいところ。

すごい繊細なのです。そして彼へのイメージをある意味「決定づける」プレイをしてくれていて、嬉しい驚きをもたらしてくれます。

 


モンクのプレイは品がないといった感覚を持っていた人が当時はいたそうですが、それを見事に打ち破ったのが今作。CDのみのボーナスは20分を超える楽曲となっているため、これまた聴きごたえがあります。

Kaki King(カーキ・キング)のギターテクニックは、枠という扉を「こじ開けた」。

ぼくが「ギター」という楽器で音楽を聴くようになってから、ひとつの大きな驚きの出逢いがありました。

 

 

 

それは、ギター奏者の代表格でもある押尾コータローさんとの出逢い。

実際には間近でその演奏を聴いた、というのが正しい表現なのですが、その時の衝撃は

 

「この世のものとは思えない演奏」

 

と表現するしかないものでした。

 

 

 

ぼくが押尾コータローの演奏と出逢ったのは、現在は無くなってしまったものの、当時札幌の音楽イベントとして開催されていた「札幌百歌(さっぽろひゃっか)」。このイベントは数日間、複数の会場で催され、様々なアーティストが参加していました。

 

当時ぼくは札幌ファクトリーホール(だったと思う)でこのイベントに参加していたのですが、たまたま違う会場で出場予定の押尾さんが、なんと飛び入り参加したのです。

 

その時の押尾さんは、デビュー前(厳密に言うとデビューは決まっていた)だったらしく、「是非ぼくのことを知って欲しい」という気持ち・姿勢から、他の会場でも演奏して回っていたそうです。そのときに演奏してくれた曲は、デビューアルバムに収められている曲で、当時押尾さんの代名詞とも言える曲と、戦場のメリークリスマスでした。

 

その2曲とも、まさかギター1本で演奏しているとは思えませんでした。

 

 

その演奏で一瞬にして虜になり、数か月後に発売されたデビューアルバムを、幾度となく聴き込んだのは、懐かしい想い出です。

 

 

 

 

押尾コータローの登場は、音楽界に相当な衝撃を生んだと思います。

 

 

 

かなり昔でいえば、ブルースを生んだロバート・ジョンソンですら、そのギターテクに誰もが息を飲み、惚れ込んだと言います。それほど、ギターテクでの表現と言うのは、技術的な壁があるように感じていました。

 

 

 

押尾さんの登場から、しばらく経過したのち。

日本ではなく、海外で、彼をほうふつとさせるテクニックの持ち主が表れました。

 

 

 

そのひとの名前を

 

Kaki King(カーキ・キング)」と言いました。

 

 

www.kakiking.com

 

 

 

女性のギタリストなのですが、この子(当時)のテクニックが、また凄いのです。押尾さんとは違い、完全エネルギーで押し切るといったイメージです。しかし、パワーだけではなく、指捌きも相当なものです。彼女のデビューアルバムも、相当聴き込みました。押尾さんとカーキの演奏は、まさしく「扉を開ける」ものだったと感じています。

 

こんなことを書こうと思ったのは、カーキのライブ映像を見たことがきっかけです。

プレイスタイルは押尾さんとそう変わらないのですが、表情のドヤ顔が凄い(笑)

それだけ、プレイに自信をもっているということなのだと思います。

 

 

事実、彼女はギターだけではなく、様々な楽器にも挑戦しています。そしてついにはヴォーカルも務め、アルバムに収録しています。彼女の考えでは「ヴォーカルも音のひとつ」として捉えているようで、歌詞はあまり重視していないようです。そんなことよりもすごいのは、ひとりでなんでもやってしまうということ。もちろんサポートするメンバーはいますが、日本で言えば山下達郎さんのような、海外で言えばパット・メセニーの「オーケストリオン」のようなことを、彼らよりも数段若い彼女がやっているというのは、何だか革新が進んでいるようにも思えます。ひょっとしたらこれは天性の才能と言ってもいいのかもしれませんが、幼少から慣れ親しんできたことが、ここまで昇華したというとても良い実例のひとつになると思います。

 

 

 

時代が進むにつれ、楽器による表現方法は多彩になってきました。

 

これから、どんな楽器で、どんな演奏を聴かせてくれるアーティストが生まれるのか。

楽しみでしかたありませんね。

「卒業」を都合のいいように使うひとたち。

ニュースでは卒業を伝える内容がここ数日流れています。

 

 

その中では、最後の卒業式など、閉校や募集終了に伴う最後の生徒を送り出すといった、時代の流れを映し出す光景が出てきます。その内容はなんとも寂しいのものですが、その志を受け継いでいく人たちは、多いことと思います。

 

 

そんな中で、いろんな物事を対象に「卒業」という語句を用いるひとがいます。

 

ここで本来の「卒業」を辞書で調べてみると

 

卒業(そつぎょう)は、学校の規定の全課程を修了すること。(Wiki)

 

とあります。

 

つまりは、「必要なことはすべてやり切りました」

 

という意味合いになると思います。

 

 

 

しかしながら、ぼくの周りで「卒業」を使う人は

 

 

「結婚を卒業した」

「●●のサポートから卒業した」

「○○に参加することを卒業した」

 

など、いろんな物事に当てはめています。

 

 

意味合いはなんとなくわかるのですが、使い方としてはなんとなく現代的。

だからといって、それが「正しい」使い方か?と言われれば、クエスチョンマークがつくのです。

 

卒業という語句を用いている以上、「そこには戻らない」「戻る必要がない」という意味になります。なぜなら、そこで必要なことは「すべて学んだから」。しかしながらそういった本来の意味すら「理解」せず、安易に、時代の波に乗っているかのような、安直な使い方をしているひとが目立ってきています。

 

 

しかも、そういった使いかたをする人に限って、「スピリチュアル」に依存している人たち。「天の采配」とか「サムシンググレートの思し召し」などと言っては、自身の行動を肯定します(絶対に否定しません)。

 

そして面倒くさいのが、卒業と言っておきながら、また同じようなことを始めるということ。それも自己都合の解釈で「必要なこと」と言い切ります。ここまで来ると、何が基準なのかはわからなくなります。それは結局はお金であったり、寂しさを埋めてくれる人であったりと、自分の信念を「かんたんに」捻じ曲げる要因があります。

 

 

 

こういったひとたちをわからせることはできないのか?と過去、考えたことがあります。

それも、かなり真剣に。

 

いろいろ手を尽くしたこともありましたが、そのほとんどは見込みなしでした。

 

返ってくる返事の内容は

「あなたはそう想っていればいい。わたしはこの道を進むから」

と言い放ち、周りの声に耳を傾けず、自分に素直に生きているんだ!というさまを見せつけていました。

 

 

 

この姿を見て、愕然としたこともあります。無力感を感じたこともあります。

否定されたと感じたこともあり、かなりささくれ立ちましたし、苛立ちました。

 

 

しかし、そのよう無責任(だと言い切ります)な振る舞いを見せられたからこそ、ぼくは逆に「火」をつけられました。その具体的な行動のひとつが、がらくた整理による「革新」だと信じています。

いまのぼくの姿を、卒業と言うことばを多用したひとたちが見たとしても。

おそらく、何も感じることはないかもしれませんし、自分の非を認めないかもしれません。

かえって「ありがとう」という、的外れなことばがかえってくるかも。

 

 

宗教やスピリチュアルに限らず、いろんなものごとに「妄信」してしまうひとは、今の時代にはたくさんいます。自分が「正しい」「信じるに値する」といったん決めてしまうと、自分の「過ち」の可能性を、見向きもしようとしません。結果、相手を責めます。

 

自分自身はそれでいいかもしれません。今のうちは。

その行動の展開がもたらす「歪み」をたとえ知ったとしても、自分の行動によるものだと理解せずに神だとかいろんな存在を持ち出しては、その存在がもたらしたことだと責任転嫁するでしょう。

 

 

こういった姿を見てきたから、ぼくは個人で進むことに決めましたし、個人で鍛錬することに決めました。

 

 

仏、諸天善神、弥勒さま、バガヴァンやいろんな組織の人、指導者などを最高位として信仰するのは自由です。が、それが正しいかどうかはまったく別の話です。それをわかることがないと、「無自覚の悪意」によってあらゆるものを遠ざけることになるでしょう。それを自覚するタイミングは決して「自分以外の誰か」によってもたらされたタイミングではありません。それをわかることがあればいいのにな、と、想っています。

がらくた整理は。

きょうまでに約10kg、70点近くに及んだ荷物の発送がひと段落しました。

それらの荷物はかつて自分がコレクションしていたもの。それはそれは大層大事に保管していました。

 

 過去記事(この時点から少し増えています)

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

これを「手放す」と決めた大元のきっかけは、現在も続けている「がらくた整理」。

増やすことによる安住ではなく、減らすことによる安定をこの身と心で学びました。

 

モノは、際限なく増えていきます。

だから、手放すという動作も、限りがありません。

つまりは、掃除や料理同様、日常の出来事の様に行われるべきものではないか、と感じています。

 

 

 

 

春が近づいているせいでしょうか、テレビや雑誌などでは、「収納」に関する特集を見かけます。それに合わせてその道の有名人がイベントに参加したりなど、各方面で表に出ていらっしゃいます。

 

正直言いますと、その活躍が羨ましいですし、ぼくも認知されたいな、と本音で思います。でも、ぼくが目指しているものとは何か違うと、感じてしまいます。

 

減らすことも、そして収納も、どちらも大事です。

でもなんとなくなのですが、「収納」にばかり、焦点が当てられがちになっているような気がしてなりません。また、「減らす」ことに対する解釈の大切な部分をカットし、都合のいいような言葉だけを並べているように見えます。だからという訳ではないと思いたいのですが、結果中途半端な整理整頓になるのではないだろうかと、想っています。

 

 

 

きょう、荷物を発送した後に飛び込んできたことばは

「がらくた整理は、究極のDIYのひとつ」

だということ。

 

今や代行サービスはこれでもか、というくらいにあります。いっそのこと頼んでしまうことも出来る時代。しかしそれでは「結果」のみを手に入れる「だけ」。なんとなくですが、その「結果」だけを手に入れれば、幸せになれる、充実した生活を送ることができると考える人が多くなってしまったように思えます。それは、会社における「結果主義」というのが、少し独り歩きしてしまったのだろうと考えています。

 

「日曜大工」ということばがあるように。

自分で何かをする。やってみる。という、結果ではなくプロセスを見て行うことも大事だと、ぼくは伝えたいです。もちろん、プロセスだけでもだめです。結果だけでもダメです。ひとはたぶん、どこかで安易な選択をすることによって、とても大切なものごとを「見落として」しまうのではないかと思います。それはひとによってそれぞれ違いますから、これだということは言い切ることは出来ませんが、いま見えるこの社会や世論、あるべき姿勢などを考えていくと、たとえ反発したとしても、その重要性は否応なしにわかるのではないかと思います。

 

 

 

きょうの午後、バッグいっぱいに荷物を詰めて発送に出向きました。

ひと段落ついたと思った瞬間、「まだ」減らせるものがある、と確信しました。

 

 

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途中経過。そして・・・

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箱が空になりました(すべて落札されました)

 

 

無理くりな表現ですが、「悟り」は一度開けばいい、というわけではありません。何回も「悟り」は開かれるし、開かれる必要があります。がらくた整理を「自分自身で」行うことによって、いろんな考え、そして新たな発見を見出す。このプロセスがあってこそ、「しあわせ」ばかりを求めていた「人生の結果」に、ひとつの大きな風穴を開けるのではないかと、考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は書類の作成ばかりで、あまり文字を書く気持ちが起きなかったので、恒例のモノを持ってこようかと考えたのですが、いざ書いてみると一気に書き上げてしまいました。まだまだ、自分で自分のことをよくわかっていないようです(汗)まずは書いてみる。これもまたDIYだなと思いました。

整理棚からひとつかみ。 ジャズ編 その46

【Series Sideman of John Coltrane

 

Cannonball Adderley Quintet In Chicago

 

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UCCU-5032

 

 

1.Limehouse Blues
2.Stars Fell On Arabama
3.Wabash
4.Grand Central
5.You're A Weaver Of Dreams
6.The Sleeper

 


personel


Julian Cannonball Adderley(as)
John Coltrane(ts)
Wynton Kelly(p)
Paul Chambers(b)
Jimmy Cobb(ds)

Rec:Feb 2,1959

 


キャノンボール・アダレイ代表作のひとつ。必ずと言っていいほど「名盤」関連の本にはこの作品は掲載されていると思います。
アダレイもコルトレーンもともにマイルス・デイビスのグループでの演奏を経験しています。
そういった意味ではとても貴重な経験を積んだふたりが織りなす新しい「ジャズ」をここで展開していることを考えると、つい「いいねぇ~」と唸ってしまいます。

アダレイのサックスは、それはもうおブイブイのブリブリです。
これでもかというくらいのアプローチをしてくれます。
コルトレーンもそれに負けないくらいの人なのですが、ここではやはりアダレイが一枚上手といった印象を受けます。


1950年代のジャズは「ハード・バップ」の時代と言われていますが、この作品はそれを象徴するものかもしれません。


とはいえ、このアルバムには「ジャズ」が詰まっていることは、確かなことだと思います。

【思い切って】ONE OK ROCK の≪We are≫の英文歌詞部分を和訳(意訳)してみた。

英語の楽曲を聴いて、感動して、ちょっと和訳してどんな歌詞なのかを知りたいな、というのは、外国語勉強の入口としてはままあるケースだと思います。

 

勉強しなさい!と言われてやるものほど、頭に入りにくいものはありません(汗)やっておけばよかったと後々想うことはあるのですが、動機が動機なだけに、定着しにくいというのが多くあると思います。

 

 

 

年末年始のことでしたが、NHKのある番組を見て、ひとつの歌に心奪われました。

単純に涙腺が緩いだけかもしれませんが、その番組を見て、歌を聴いて涙しましたし、自身の様々な出来事と重なって咽び泣きました。

 

その歌の名は「We are」。

 

今や世界的なバンドになった「ONE OK ROCK」の楽曲です。

 

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

 

その後アルバムがレンタルになり、かなりな頻度でリピート再生して聴き込みました。

そして久々にというか、珍しくと言ってもいいほどなのですが、この英文の歌詞を和訳してみよう!ということになりました。

 

歌詞の和訳と言うのは比較的多くのかたがやってらっしゃって、実際に和訳をする前に、ほかの方のブログを拝見して「こういう意味なんだ」というのをイメージしながら歌を聴いていました。

 

ただ聴きこみを続けていると、どこそこがよく耳に残る、といったようなことがあったため、自分なりの和訳(意訳)をしてみたい気持ちになりました。

 

 

 

あの日、あの番組を見た気持ち。

そして、歌を何度も聴きこんだときの昂ぶり。

それらを踏まえたうえで、どんな歌詞和訳になるのか。

 

決して英語に明るくないのですが、いま出来るだけのことをやってみようという気持ちで和訳を行いました。これが絶対!というわけではありませんので、「こんな和訳もあるのねー」程度に見ていただければ幸いです。

 

 

では、歌詞和訳(意訳)を、ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

「We are」

 

作詞:Toru・Taka・Brittain Colin・Long Nick

作曲:Toru・Taka・Brittain Colin・Long Nick

 

アルバム「Ambitions」 4曲目に収録

 

 

 

 

We are

 

We are

 

We are

 

We are

 

They think that we're no one

(ぼくたちはひとつではなかったと思うんだ)

 

We're nothing, not sorry

(しょうがないさ、無力だったんだから)

 

They push us

(誰かがこう、はやし立てるんだ)

 

It’s too late, it’s too late

(もう手遅れさ、もう遅い、ってね)

 

Not going back

(もう、元通りにはならないってことさ)

 

 

 

夢は終わり 目を覚ます時 絶望や希望も同時に目を覚ました

 

鏡に映った 僕が問いかける

 

自分を誤魔化し 生きることに意味はあるか

 

 

 

When you're standing on the edge

(もう、どうしようもなくなったとき)

 

So young and hopeless

(絶望や無力さが際立ち)

 

Got demons in your head

(ますますぼくは悲観的になる)

 

We are, we are

(待ってくれ!)

 

No ground beneath your feet

でもそんな証拠はどこにも見当たらない

 

Now here to hold you

(さあ、ここで軸を立てるんだ)

 

'cause we are, we are

(だってぼくたちは)

 

The colors in the dark

(パンドラの箱にある、絶望の中の希望なのだから)

 

 

 

酷く痛む 鼓動は早く

 

遠のく景色を この手で掴もうとした

 

 

 

They are the weakest

(ぼくたちはこのうえなく脆い存在だ)

 

They don’t even know

(これ以上のことは、何も知りたくないんだ)

 

Anything they say

(そういった中で、誰かがこうつぶやいた)

 

Will never break our hearts of gold

(ほんとうのプライドは、何人たりとも打ち壊すことはできないと)

 

 

 

When you're standing on the edge

(窮地に立たされたとき)

 

So young and hopeless

(この上ないお粗末さやマイナス思考が)

 

Got demons in your head

(ぼくの脳内を破滅的にする)

 

 

 

We are, we are

(いいや、違う!)

 

No ground beneath your feet

(それは誰かが決めつけただけの話しでしかない)

 

Now here to hold you

(だから今からでも、ぶれない軸を立てるんだ)

 

'cause we are, we are

(なぜって?だってぼくたちは)

 

The colors in the dark

(たったひとつの希望なのだから)

 

 

 

Never tell yourself

(決めつけてはいけない)

 

You should be someone else

(それが他の誰かのことであったとしても)

 

Stand up tall and say

(ひとり立て。そして声を出せ。)

 

I'm not afraid, I'm not afraid

(大丈夫。何も怖くない、と。)

 

So never tell yourself

(レッテル貼ってはダメだ)

 

You should be someone else

(誰かが直面していることであっても)

 

Stand up tall and say

(ひとり立て。誓いを立てろ。)

 

I'm not afraid

(怖れるものは何もないのだ、と。)

 

 

 

When you're standing on the edge

(絶体絶命のピンチになったとき)

 

So young and hopeless

(とても未熟で、すぐに諦めてしまう)

 

Got demons in your head

(考えることが破滅的にさえなってきた)

 

 

 

We are, we are

(それでも。)

 

No ground beneath your feet

(それでも、そんな根拠は証拠はどこにもないんだ)

 

Now here to hold you

(だから今こそ、きみ自身を認めてあげようよ)

 

'cause we are, we are

The colors in the dark

(だってぼくたちは、夜明け前の闇にあらわれた、眩い太陽なのだから)

 

 

(日本語歌詞部分:Toru/Taka(ONE OK ROCK))

※日本語歌詞部分は、意訳に合わせるのではなくそのままとしました。

 

 

~感想~

 

辞書を引きながら直訳を起こし、そこから意訳していく時間帯はとても楽しく感じました。ただ、表現力の幅はまだ狭いなと実感しています。それでも、自分なりに曲のイメージと、この曲が何を伝えたいのかは見えてきました。

 

受験勉強のときの英文和訳はそれほど楽しいものではありませんでしたが、好きな曲を訳していくというのは、とてもいいきっかけになりそうです。野外活動をする際には海外のかたともお話しする機会がありますので、そこまで実力を高めていきたいとも思いました。

 

なお、歌詞和訳とはいっても「意訳」になるので、単語本来の表現からは外れている場合があります。イメージとしては、和訳した文章のイメージから、他の表現を使うといったような感じです。未熟さを感じましたが、反面、わくわくさも感じました。拙い表現で恐縮ですが、少しでも何かを感じていただければと思いました。

 

 

【ここから加筆】

 

この曲は、希望がないさまを表現しています。

でもどこからか、それをやわらかく否定し、自分のなかにある光、希望を見てという語りかけに変わります。

 

曲調を意識しながら聴いていくと、それは叫びに聴こえることもあれば、いまにも途切れるくらいのか細い声で、無力感を表現しているように伝わりました。

そこから、「何言ってんだ!」というような、力ある声が響き渡ります。

イメージとしては、完全に松岡修造さん(笑)

「なんで諦めるんだよ!」「まだこれからじゃないか!」といった、激励が聴こえてきます。歌詞の中では、これでもかというくらいの表現でどん底さを出していましたが、勇気づけるさま、元気づけるさまはストレートに思えました。そんな印象すべてを意訳に込めることは出来ませんでしたが、何か一歩、前に踏み出すことが出来た感覚が残っています。完全アレンジになってかえって失礼になってしまうかもしれませんが、オマージュというかたちでまったく違う作品に仕上げてみてもいいのかな、と。

 

ともかく、意訳をやりました。これをやることができたという結果に、満足しています。

最初から何もできないわけではない。やろうと思ってやってみたら、意外と出来ることはある。

 

そんな気持ちと、実感を与えてくれる、お気に入りの歌の意訳でした。