つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

【詩】もうそこには

新聞で写っていた店先は

 

かつて自分が立っていた場所で

 

あの日のぼくはそこで

 

大きすぎる抱負を語っていた

 

笑顔の裏に不安を隠して

 

心のいちばん奥に覚悟を潜めて

 

 

 

 

高校のクラスは3年1組

 

席は確か いちばん前だったと思う

 

その時は学級委員長をやっていて(またはやらされていて)

 

使えねぇ奴と白い眼を向けられながら過ごしていた

 

だからもう今は

 

高校の卒業アルバムは捨てている

 

 

 

あのビルの3階にかつて勤めた職場はあって

 

そのど真ん中の席でコントロールをしていた

 

朝早く来て 終電近くに帰って

 

時には乗り合いタクシーで帰る日々がありながらも

 

必死に働いてた

 

あの席はもうないだろうけど

 

あの席があったから今があるとやっと思える

 

 

 

それから居場所を転々とした

 

どこかで選択を間違えたのではと思うほどだ

 

こんなはずじゃなかったと間違い探しをしながら

 

いい年してバイトなんかしてんじゃねぇと

 

そこでまた白い目で見られながら

 

挨拶しても無視する店員がいる駅前の百貨店で

 

ひたすら耐えるように座っていたこともあった

 

 

 

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生きる場所を変えたのなら

 

それまでいた場所にはもう戻れない

 

そんな気持ちを持ちながら

 

空が広い場所までやってきた

 

 

 

ここもやがて かつていた場所になるのだろう

 

 

 

 

 

 

もうそこにいなくなったことであなたの顔を見る機会はすごく減った

 

その反面あなたの近くにいたいと想うようになった

【詩】フェイク

今や誰もがそれと望む言葉を引き出し

 

自由気ままに切り取って解釈を述べていく

 

それは本来の意図に重い布を被せ

 

違った意図を流布せんとする

 

それが使命だと信じてやまない

 

それが貢献だと確信して疑わない

 

そんな中から真実を探り当てるのは最早困難になった

 

そうしていつしか 距離があいていく

 

世間だけではなくいつの間にかキミも言葉を切り取って

 

性急な判断とレッテルを貼り付けていく

 

 

 

そんな風にはなって欲しくないのに

 

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どこかの大統領が言った

 

それはフェイクニュースだと

 

ではフェイクではないニュースはどこにあるんだろう

 

礼賛ばかりが流れるとは考えにくいんだけど

【詩】いやだ

いやだ

 

このまま会うことなくお別れなんて

 

いやだ

 

このまま嫌われて終わるなんて

 

いやだ

 

このまま自然消滅なんて

 

 

 

 

 

いやだ

 

いやだ

 

いやだ

 

 

 

 

 

 

いやだ

 

このまま外出ができない生活なんて

 

いやだ

 

このまま不景気になるなんて

 

いやだ

 

身動きが取れないままただ時間だけが過ぎていくだけなんて

 

 

いやだ

 

いやだ

 

いやだ

 

 

 

 

もうしばらくのあいだSNSでしかやりとりをしなくなった

 

顔を見たくなっても君はどこかでスルーする

 

予期していないときに限って表れては

 

満面の笑みで手を振ってくる

 

どうしてこんな時にって思いながら

 

ぼくはただ 手を振り返す

 

 

 

 

いやだ

 

いやだ

 

いやだ

 

これで終わりだなんて思いたくない

 

 

 

また

 

どこかで逢いたいな

思いやりとか、善意という言葉では言い表せない。

日常を送ることが難しくなってから、いつの間にか1か月が経過していました。

前段階を考えると、今年の初めくらいから脅威は及んでいたのかもしれません。

 

 

 

実際に目の当たりにした脅威を前に、人々は立ち竦みました。

未来がまったく、描くことができなくなりました。

夢どころか、現実も、です。

 

 

 

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この事態を前に、様々な企業、そして団体が、この身を投げ打つ行動を起こしてくれました。

 

報道で目にするのは、著作権等を持つ企業が期間限定で無料配信・閲覧を可能にしたこと。

その他にも、NPOによる人道支援が広がっています。

 

 

 

 

「困ったときはお互いさま」

 

 

 

日本人らしい精神が、日本全土を包んでいます。

 

一部では逆に殺伐としていますが、いい加減にわたしたちは学ばなくてはなりません。

 

これからもこのような非常事態時に怒り狂うのか?

そのような恥を、後世に語り継ぐのでしょうか。

コロナの騒動でいろんな諍いが起きていますが、この騒動は今まで隠れていたものをあぶり出そうとしています。

 

日常に戻ることを引き続き願い、祈りますが、この出来事をきっかけに、普段は目に見えない、禍々しいものが小さくなってくれればと思いました。

 

 

 

まだ、この国は大丈夫です。

循環が必要なのは自然環境だけじゃないよね?

気がつけばどれくらいのあいだ、同じような報道を見ているのでしょうか。

対処法も確立されていない脅威を前に、今のわたしたちは息が止まらない程度に止まることを余儀なくされています。

 

この「止まる」という行動を大規模に行った効果は凄まじく、経済は急激に失速しています。日経平均株価NYダウ(でいいのでしょうか)は連日速報で安値を知らせるほどで、ブラックマンデーに迫るものだと報じられています。

 

何となくですが、「綻び」が見えてしまったのではないかと思います。

これが、この世界に生きる人が考えたことの限界なのではないかと。

 

経済を批判しても意味がありませんが、こう経済がコテンパンにやられてしまっている様を見て感じたことは、「要点を捉えきれていない」というものです。

 

 

 

無論ですが、経済発展の材料はその時代によって異なります。

しかし材料は異なっても、発展のためには資源が必要不可欠になります。

 

大きな問題として、どうやら人類は資源を「無限にあるもの」として認識してしまったことで、後々の状況の変化に慌て、内側ではなく外側に頼る状態になってしまったのだと個人の小さな頭では思ってしまいます。

 

以前は資源も大量にありました。現在は大いに減りましたが、それに代わるものとしては人口の増加があります。しかし、「大量」は「無限」とイコールではありません。細かいことではありますが、そういった感覚の違いが、注力する方向をずらしてしまう結果につながったのではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

話は変わりますが、循環というキーワードが使われ、注目を浴びるようになったのは比較的最近のことと思います。

 

この循環は環境保護の色が強く、経済とは対立する立場で多用されている感があります。しかし本当にここ最近になって、経済の分野でも循環が重視されるようになってきました。環境保護活動を企業主体で行われることも多くなり、ほんの少しではありますが、世界が経済と環境を同等に捉え、考えるようになってきています。

 

 

ただ、「まだ」循環されてないままのものがあります。

 

 

 

それは、人の「こころ」です。

 

環境の大切さを語る人のこころも、経済の重要性を説く人のこころも、共通した「循環」が必要です。

 

こころを循環、ということはどういうことでしょうか?

 

表現が稚拙で面目ないのですが、「怒りがない」ものを次に繋げる、というものです。

 

 

 

経済にすがる人も、環境を死守する人も、その口調が強烈な人が多い印象です。

打っても響かない鐘だからというのが理由のひとつなのかもしれないのですが、強く打てば響くかといえば、それはまた別の話になります。

 

結局わたしたちは大事な要点も感情に流されやすく、結果として争いしか導いていないことが多くあります。そこを変えていきませんと、今後も痛い目に合います。

 

 

今回のコロナ騒動を、忘れない教訓にしなければなりません。

目に見えるものも、目に見えないものも、すべてが「循環」しています。

言い換えれば「輪廻」と表現すればいいでしょうか。

 

 

対策は色々と練られるでしょうが、個人個人の中でも大きな変化を起こしていく必要があるのではないかと思った、土曜日の午後でした。

 

アタリマエが出来ないことの苦しさを。

非日常が続く状況で、日常が傾きはじめてきています。

 

見えない脅威は世界に広がり、他国と手を取り合って回してきた経済という車のスピードが、みるみるうちに遅くなってきました。このままでは停止してしまいそうな勢いで、誰もが望まない展開がすぐそばまで来ています。

 

いつの間にか、普通のことができなくなってきました。

ほぼ規制に近いお触れが、苦しみを誘発しています。

これほどの苦しみは、何かに例えられるものではないのかもしれません。

(戦争や不況とはまた違った意味で)

 

日本人は我慢ができるひとたちだという話を聞いたことがありますが、今の若者たちは果たしてどうなのでしょう。この日常よりもやはりスマホを触ることができないことのほうが、苦しいと感じる人はいらっしゃるのでしょうか。

 

 

 

こういった騒動(とうとう世界ではパンデミックと定義しました)に限らず、何か物事が起こりますと、どうしても「原因」を考えてしまいます。現在はひとつの「結果」であるならば、その引き金を引いた「原因」があるからです。現実的なことも非現実的なことも、その理は共通していると感じています。そして思うのは、その結果はそこでジエンド、というものではないということです。「次につなげることができる」類のものです。終わり方はまだ決まっていません。悲観するにはまだまだ早いと言えます。

まぁ、ぼくが言ったところで、ねぇ 笑

 

 

楽観的(すぎる)表現かもしれませんが、今回は「これくらい」で良かったのだと思います。この先、もっと我慢をしなければならない時間が来ないとも限りません。そのための予行演習だと思えばいいのではないかと思いました。そして、忘れないようにしていかなくてはとも思いました。

 

当たり前のことが出来ないということに、窮屈さや苦しさを覚えても。

その中に楽しさを見出し、毎日を笑顔で過ごしていくことが大切だと感じました。

雨が降ったら晴れますように。

昨日の渡島方面は1日雨でした。

 

 

北海道内でも違う地域ではここよりも厳しい状況になったようです。

安穏無事に過ぎることを祈ります。

 

 

このご時世ですから用事はまとめてしまいたいところなのですが、今週はどうも外勤する機会が多いようです。昨日は函館市へ。本日は町内ですが外勤をしてきました。

 

 

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写真はパノラマロードです。

 

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おもいびと

あれからずいぶんと時間がたったね

 

どうだい?そっちは元気かい?

 

こちらは何とかやってるよ

 

疑心暗鬼に駆られ

 

半べそかきながらも

 

毎日を必死に生きてる

 

そしてきみを想い続けている

 

 

 

 

あの日

 

きみは何をしていたのだろう

 

ぼくはあのとき

 

札幌の地下街にいて

 

普段とは違い

 

いきものの中にいるかのような揺れを感じた

 

何が起きたのかと調べてみたら

 

とんでもないことが起きていた

 

 

あの光景を見て

 

何を想い何を願ったかは

 

たくさんありすぎてよく思い出せない

 

ただ

 

きみが笑顔でいることを祈っていたことははっきりと覚えているよ

 

 

 

 

本気の手紙を送っても

 

いともかんたんにかわされてしまう

 

ただ既読のアイコンがつくだけで

 

何がどうなったのかを知ることはできない

 

それだったらそもそも手紙なんて送らなければよかったんだ

 

そういっては自分を責める

 

自分のやることやすことはまるで蟻地獄のように

 

 

 

他人と比べてどうかはわからないけれど

 

嫌われることが多かったように思う

 

 

 

ただ何となく不思議なのは

 

 

 

押しつけがましいと言ってきた、糖質ダイエットをしていた人や

 

死ねばいいのにと真顔で言った道北方面出身の後輩

 

コイツ使えねぇと自分本位の仕事方法を押し付けてきたバイト先の百貨店店員

 

コレハ仕事だよと言っておきながら自分はまったく仕事をしなかったバイト先の社長

 

自分勝手な人たちに遭遇することが多かったけど、そんな人たちと平等に生きている

 

それはどこかで不満だと感じながらも、どこかでアタリマエなんだと気づいたよ

 

 

その人たちとはもう言葉も視線も交わすことはないだろうけど

 

どこかで何らかのカタチで見返したいと思ってしまう

 

それはやっぱり逆襲なんだよね

 

あまりいいことじゃないけれど

 

それが今ある原動力の少しの部分なんだ

 

そうしていつしか9年が経っちゃった

 

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今も昔も変わらないのはおそらく

 

言葉を尽くすということだけ

 

時には長たらしくなって敬遠されるけど

 

バカのひとつ覚えのように今でもこればかりやっている

 

いまはただ磨くしかない

 

 

 

だからもう少し きみを想っていてもいいかい?

 

きみはもう忘れているだろうけれど

 

ぼくは忘れない

 

忘れることができないんだ