気持ちや想いが展開をもたらす。波紋を起こす。ことばでも手紙でも、大事にしなきゃなんない。
2週間くらいまえのこと。
幾つかの所用を済ませたあとに、大学時代の友人へ手紙を書いた、ということを日記で書いていました。
現在はメールやメッセンジャー主体の世の中なのでそれを使って連絡をすればいいのですが、たまーに手紙を書いて出そうという気持ちになることがあります。内容としては近況の報告や、相手の状況などを窺うようなものになっています。
それだったら尚更メールで、という話になるのですが、大学時代から手紙を書き始めたこと。そしてそれが「習慣」としていまも続いているからこそ、敢えてではなく、ここぞという感じで手紙を書くようにしている。そんな感じです。
いまは大事な話も、別れ話といった訣別もメール等でかんたんに出来てしまう時代。
メールの便利さを感じながら、そこに潜む不便さも感じています。その不便さをうまく表現することは出来ないのですが、この心境が少しでもわかっていただければと思います。
こちらから出した手紙は、メール等が主流でない頃には、よく返事が返ってきていました。
ですがいまは、置かれている状況の変化もあってか、メールや年賀状での返信に留まることが多くなってきました。これはある意味、仕方のないことだと思います。
だからといって、じぶんもメールでいいや、とはなぜか想うことが出来ません。それは単に天邪鬼なのかもしれませんが、電子的な文字よりも、たとえ下手でも直筆の字のほうがいいと感じてしまうためです。そして、書くことは考えることにつながります。少なくとも、メールを打つ時よりは格段に考えます。それがあるからこそ、幾つもの辛く苦しい体験をしたあと「ことばを大切にしよう」と強く感じました。まだまだうまいこと進んではいませんが、日々学び、考え、紡ぐことで、1ミリでも進んでいるような実感が幸いにもあるというのが救いです。
じぶんが喋ってひとに語ることばも。
メールでも、手紙などで綴ることばも。
そこに込められているものは、決して軽いもんじゃない。
最近はとても強く感じるようになりました。
先週だったか、我が家に荷物が届きました。
差出人は、青森に住んでいる大学時代の友人でした。
送ってくれたのは、なんと「お米」。
青森県内で一躍有名となった「青天の霹靂」を送ってくれたのでした。
このお米、好みです。
実はこのお米、北海道でいうならば「ゆめぴりか」と同じレベル(等級)のお米で、青森県では初の獲得米となり、昨年は少量ながらも県内で販売され、即完売となったそうです。
このお米を知ったきっかけは、昨年夏に瞑想合宿に参加したのち、高速バスを利用して北上した際、青森県に寄りました。その際今回手紙を出した友人にも久々に逢ったのですが、宿泊中に買った新聞の記事にこのお米のことが書かれてあり、またそれがインパクトのある名前であったため、憶えているほどだったのです。
その後、今年に入ってガラクタ整理の講座を受講するため隔週で上京していた時期がありましたが、ちょうど北海道新幹線の開業前後の時期に北海道と青森県共同開催の物産展が行われていることを知人を介して知り、奇跡的にこのお米を購入することができていました。それくらい、個人的にはとても嬉しい出来事だったのを覚えています。
おそらく、上記の内容もその友人には話していたと思うのですが、先方の配慮、というか「思いやり」のような感じで、再びこのお米が我が家に来ることになった、というのが、今回の流れでありました。
書きながら思ったことは、親戚であれば野菜だとかいろいろ送ってもらうということはあるものの、友人からというのはなかなか経験しないことだということ。それだけ、相手の思いやり、心遣いというのがとても嬉しく、そして有難く感じました。
手紙で、相手に求めるのはなんだろう。
ふと考えたとき、そのさきには何も求めない「無私」が垣間見えたように思いました。