つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

ショックの中身を探る。

昨日のことですが、コップがひとつ、割れてしまいました。

家人が手を滑らせてしまったからです。

 

それは札幌在住時に購入した、アンティークのコップでした。

 

デザインが気に入っており重宝していたのですが 。

 

 

 

家人が謝るのですが、口では「しょうがない」と言いつつも、気持ちの整理がつきませんでした。

 

 

謝るのは、わかるのです。

それは「理論的に」理解できるのです。

 

しかし、この身に受けてしまった「ショック」なものは、そのことばひとつでは拭い去ることなどできませんでした。

 

 

 

どうしてだろう?

 

 

そんなことを考えていました。

 

 

まだ未熟なこたえですが、

 

 

謝罪した対象は「コップを割ってしまった(コップが割れてしまった)」こと。

 

ショックを受けた対象は「コップが割れてしまった(コップを割ってしまった)」こと。

 

 

謝ってくれればそれで済む、もしくは治まる内容のはずなのですが、実際は、

 

 

その謝罪は自分の中に一切届きませんでした。

 

 

 

これまたどうしてだろう?と思いました。

 

この時点でわかったこととしては

 

「ショックな出来事に対して、例えばことばでの謝罪は何にもならない」

 

ということでした。

 

 

 

そして、ショックなことに対して相手は謝罪を重ねてきます。

それはその人の気が済むまで(ニュアンスは異なりますが、そんな感じ)行われるのですが、残念ながら届かないのです。場合によっては、騒がしくなってしまうだけです。

そこがうまく説明できないと、その人とのあいだで諍いが起きてしまいます。

そして最後は「好きにすれば」や「もう知らない」になるのです。

 

 

ではどうすればいいのだろう?

 

ぼくが家人に話したことは「謝らず、普通に接して」でした。

ショックなことには触れないで欲しいというお願いです。

これって、失恋に似ているのかもな・・・と、かつての若者は思いました。

ショックを受けた自分の中のものを癒すものは、言葉ではないのかもしれない。

言葉の時もあるかもしれないけれど、何が当てはまるかは都度変わる。

 

そりゃそうだよね。

と思ってしまいました。

 

 

 

1日たって、自分の中にあるはずのショックはだいぶ小さくなりました。

自分には「かたちあるものいつかこわれる」と言い聞かせていました。

 

かたちあるもの。

 

それは物質であったり、誰かとの関係であったり様々ですが、これから先はあまりショックを受けたくないなぁと思うのでした。