以前ですが、こんな作品を読んでブログに上げていました。
今だからこそでしょうか。逝ってしまった人に向けた文章を書こうと思うようになったのは。それまでは、自分の心の中でしか、いろんな言葉を積み重ねることはしなかったと思います。こちらの作品は、ある一定の条件をクリアして本というかたちに残っていますが、ぼくの場合は、このブログで、今の心境なども含め、残しておきたいと思います。まずは、かつての親友になります。
いっこうくん。
きみがバイク事故で逝ってしまってから何年が経ったのでしょうか。
当時は事故の報も知らず、あなたの奥さんからの、ぼくが出した年賀状への返信ではじめて知りました。結婚していたことにも驚きましたが、まさかきみがもういないなんてことがあるでしょうか。しばらく信じることはできませんでした。
きみの奥さんとは数度ですが、やりとりをしました。ただ、彼女もどこかの節目で歩き出す姿勢を見せていたので、それ以上の通信は行っていません。後からきみの葬儀に関することを、当時の仲間に聞いて回りました。そういえばと、ぼくがいなかったことにみんな気づいたようでした。それは何らかの計らいだったのではないかと、今になって考えています。もしかして、いっこうくんが調整したのかもね。
たしか、年齢はきみのほうが上だったと思う。それでも年齢を気にしないやりとりが続いたと記憶しています。95年に入学して、卒業はそれぞれずれてしまったけど、レポート作成とサポートに奔走していたことが懐かしいです。そして恋愛の話では、けっこうきみから真面目な話を聞かされたと覚えています。ぼくよりも真面目で、熱い人だったんだなと回顧しています。
卒業してからは音信も途絶えがちだったね。
それでも、元気でやっていると思っていたよ。
それがこんなことになるなんて。きみだけ時間が止まってしまうなんて。
あれからもう何年経っただろう。ぼくは立派なおっさんになったよ。
幸いにも太ってないよ。体形はずっと維持できているよ。
きみはまだ、上からぼくのことをたまにでも見ることはあるんだろうか。
そうだとしたら安心して欲しい。浮き沈みはあったけれど、ぼくはいましっかりと歩んでいるから。
いつの日だったか、夢の中できみに再会したとき。
ほんとうに会いたかったから、ほんとうにうれしかった。
共通の信仰をしていたけれど、その信仰がどうとかは横に置いておいて、その信仰を通してきみに出会えたことは、大きな功徳だったよ。その後ぼくは信仰に対して疑問に思うことが多々あり、そこから離れてしまったけれど。
信仰に依りかからなくなったことで、いまぼくはたしかな信仰を掴みつつあります。
こっちの人たちは相変わらず「自分(たち)の信仰こそが正しい」という空虚を生み出しているけれど、ぼくはその道から外れ、自分で見つけることにしました。まだまだ茨の道に自分から入ってしまっているけれど、感覚はつかめて来たよ。説得力はなんらないけれどね。
ほんとうはあれこれと書いて残しておこうと思ったんだけれど、書いているうちに忘れてしまったよ。ごめんね。また何かの機会に触れたとき、そのときの心境を書かせてもらうね。
改めて、ここに書き残しておきます。
いっこうくん、きみはぼくの友達でした。仲間であり、親友でした。
ありがとう。