著者の知人が亡くなってしまったことがきっかけで生まれた、「遺された人々」にも触れた本です。
この本が生まれたきっかけは、その知人はかつての恋人。
そして、そのかつての恋人が、自死を選んだこと。
いなくなって初めてわかった心情を、逝ってしまった人に送るとともに、その出来事がきっかけで集まった友人との交流から垣間見えた「遺された人々」にも目を向けた作品となっています。なおこの本の刊行にあたり、亡くなられた方のご両親に許可をいただいたそうです。
自分の周りで自死を選んだ友人はいない(と思っている)のですが、かつて勤めていた宅配系会社の上司が練炭を選んでしまったことがありました。その上司は自分をアルバイトから契約社員へ推してくれたという経緯があり、正直驚きでしかなかった記憶があります。
自死とは「予期せぬ死(周りからみて)」を指しますが、自分の周りでは交通事故による早すぎる死を迎えてしまった人がいました。ひとりはこのブログでも触れたことのある「いっこうくん」。
そしてもう一人は、高校時代の同級生でした。
いっこうくんの時は年賀状の返信で知り、高校時代の同級生は当時まだ交流があった同級生からの連絡で知りました。いずれも「まさか」という思いがありました。
いっこうくんの時は既に葬儀等が終わっており、同級生の時はお通夜に参列しています。しかし、お通夜の会場は当たり前ですが高校の同級生たちが参列。私の姿を見るなり、「かつての空気」満載でこちらを見てきました。いじめているという感覚はないでしょうが、今でいう「マウント」は、卒業後でも立派に生きているようでした。ひそひそ話もしっかりと聞こえていました。
「いまその話をする時か」
と個人的には思いました。が、その人たちにとってはそれも無理だったようです。
何をどのように思っているかはわかりません(でもだいたいわかる)が、この出来事が決め手となり、高校の思い出からは遠く距離を置くようにしたのです。
話を戻します。
この本の肝心な部分は「どうしてもっと早く知ることが出来なかったのか」だと思います。
これは誰にでも起こりうる「願い」であります。
それがわかればどんなにと思うことでしょう。
それがわからないから、唐突な別れというものはやってきます。
訪れるのは後悔と反省、そして無力感です。
しかしこの本に関しては、とても前向きな記述で締めくくられています。
この本を書かれて、本当に良かったと思えるくらいです。
月日が経つのはとても速いです。いつまでも忘れないで欲しいと思います。
ぼく自身も、「いっこうくん」と「亡くなった同級生」のことは何故か忘れていません。
しかも「亡くなった同級生」はどちらかと言えば、ぼくを「嘲笑っていた側」の人間です。「せいせいするわ」くらいは思っても良かったのかもしれませんが、お通夜のときも、ただただ冥福を願う気持ちのみでした。騒いでいたのは、その日生きていた人たちだけです。
詳細な命日は忘れてしまいましたが、何かの折に思い出すようにしています。
冥福を祈ることが復讐になるわけではありませんが、自分という人間が「堕ちない」ための、結ばれたロープのような感覚があります。それが今後どうなるかはわかりませんが、正気でいるうちは、ただ祈ろうと思います。