とみーのグラウンディング日記

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

ある意味、本棚は自己主張の象徴なのかもしれません。その中にも、自分の足を引っ張る「モノ」や「ココロ」があることを覚えておく。

ガラクタ整理に話を戻し、いよいよ本丸に攻め込みます。

 

 

-本棚-

 

 

本棚は全部で5段の棚があり、一番下は雑誌などの「高さ」をとる本が中心になります。

 

その上からは「単行本」「文庫本」「コミック本」「パソコンソフト」「辞書」などがまんべんなく収納されています。

 

本棚にもよると思うのですが、我が家の本棚は「奥行」があるので「前後に」本を収納することが可能。そのため思った以上の数の本等を収納することができます。

 

 

 

 

 

実はこれが曲者で、奥の本は常に見える状態にありながら「半ば放置」の状態に近くなってしまいます。「奥」に収納するということは「頻繁に」本棚からは出さないという流れになってしまうからです。

 

そして手前には「つい最近買ったもの」を中心に並べていました。コミックとか、単行本とか、本当にいろいろです。立てたり、横にしたりなど雑然としていました。

 

 

雑誌類の収納場所もぱんぱんで、あまり新しいものが入る余地はありません。

上の段も「奥」に関してはきっちり並べており、余裕があるとすれば手前のスペースくらい。

 

 

整理の手順は上の段から順番に、なるべく短い時間帯で整理することにしました。

 

 

 

上4段までは残すものと整理するものが早い段階で分けることが出来ました。

本棚という「目につきやすい」場所に収納していることから、触りはしないけれど普段から「目にしている」というのが土台になっていたようで、手に取って感じる以前に、目で見てその判断ができるところがありました。そして取り出してみると感じた感覚と一致。その感覚の通りに次々と出していきました。

 

下段にある雑誌類も「月刊誌」に関してはすべて出しました。そして読まずに整理するものと読んでから整理するものとに分けます。その他ムック本や観光地のガイド本などもあったので、これらは1冊ずつ丁寧に手に取り感覚を確かめてから振り分け。

 

この収納場所にはプリンターで使用するA4紙だったり、使っていないノートだったり、要するにここでしか収納できないものもちらほら。この収納場所は後々見つけることとして、わたしは気になる一角に目を止めました。

 

 

 

 

それは

 

 

 

 

卒業アルバムでした。

 

 

 

 

本棚には小学校中学校高校の卒業アルバム。

あとは大学の開学ウン周年記念史みたいなものが。

 

これはとても不思議なことなんですが、どうして卒業アルバムって独特のカタチをしているんでしょうか?普通の本棚にも入らず、収納場所に四苦八苦。ダンボールに入れるにしてもカタチがそれぞれ違うので(中学校のが一番普通のかたちでした)、箱に入れて保管するにも場所をとるという具合。

 

それでも無条件状態でこれらは残しておきました。

 

書き忘れていましたが、押し入れの天袋近くの一番高い位置に収納するスペースがあり、そこにもダンボール1箱を保管していました。

 

中身を確認するといわゆる「文集」がどっさり。

高校時代に関しては学校の広報誌なるものも入っており、ひとことで言えば歴史を感じさせました。あとは小学校のときにみんなに書いてもらったアドレス帳とか、宿泊研修の感想文集みたいなものとか。

 

 

そう考えると、思い出の品というのは案外ありそうで、その種類も幅を広げてしまえば結構な分量を持つことになるんだなーと実感。

 

 

 

学校時代の思い出が凝縮された卒業アルバムや文集。

 

この「思い出」の象徴を、わたしはどうすることにしたのか。

 

 

 

 

  

 

 

結果。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のガラクタ整理で

 

 

 

 

 

 

 

卒業アルバムと文集すべてを整理することにしました。

 

 

 

 

 

ひとつ残らずです。

 

 

 

 

これを整理するきっかけになったのが、昨年12月東京へ赴き4月に札幌でワークショップを開催するときに講師になってくださる、ガラクタ整理師の竹内清文さんの講座に参加して質問したことがきっかけでした。

 

その講座は年末ということもあり、これまで講座を行ってきたぶんのおさらい編という感じで行われていたのですが、講座の内容を聴いていくうちに湧き上がったのが

 

 

 

「卒業アルバムの整理」についての疑問でした。

 

 

 

正直、この時点ではどうすればいいかまったくわからなかったのです。

むしろ「残しておくべきものだ」と思っていた方が近いかもしれません。

 

 

 

そのような疑問をぶつけてみたところ、まぁあっさり(笑)した回答が返ってきまして、我に返ったというか、その感覚で実は間違いなかった!という感覚になった記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

ここで気持ちの整理をしてみると

 

卒業アルバムや文集はそれこそ思い出を刻んだもので、これは自分の老後まで「残しておく必要がある」ものだと「勝手に」思っていました。

確か卒業アルバムは決して安くはなく、当時は「これにそんなにお金がかかっているなんて」という気持ちで、疑問しか生まれてきませんでした。

卒業後に使う機会がどれほどあったかというと「そんなに」ないのが実情。

テレビに出演するわけでもないので、あまり利用価値はなかったのですが義務感のようなもので持ち続けていたといっても過言ではありませんでした。

 

 

 

 

 

ではなぜ「整理」しようと思ったのか。

 

それは「まったく気持ちが向かない」からでした。

 

言い換えると「空虚」だった、といった感じでしょうか。

 

 

じぶんが屋号を掲げて前に進み始めたからなのか、卒業アルバムを残すといういわば「修行」のようなものに対する強い想いみたいなものがだんだんと薄れていき、ついには「重荷」に感じるようになっていました。

 

加えて、学校生活の思い出はいいものばかりとは限りません。

 

 

 

特に高校時代に関しては義務教育のなかでは最低で、わたしが浮いた存在だったからなのかはわからないけれど周りからは「調子づいてる(調子こいてる)」「使えない」といったいわば「白い眼」で見られ続けたからです。

 

隣のクラスの男子に英語の辞書貸してくれと言われて貸してみたら、ページが一部破られて返ってきたとか、靴箱の靴を隠されたり(ときには投げ捨てられていたり)とか、立派な「いじめ」があったわけです。

 

 

それを当時は「あたりまえ」のように勘違いブス生徒たちはやっていました。

それが悪いこととは「まったく」考えていなかったんでしょうね。

 

たぶん「使えないお前が悪い」とか「調子こいてるお前が悪い」とかで、粛清している立場だったんでしょうね。いい気分だったと思います。それで日常を楽しく過ごしているんですから。ですが今となってはどブスとしか言いようがない。

あの時は自死するという人がいなかったけど、今は残念ながら自死してしまうケースが増えている。仮に当時そういった行為が原因でわたしだったり「誰か」が死んだとしても、わたしに責任はないと逃げ切るのでしょうか。

 

 

 

 

 

たぶん、逃げるでしょうね。

 

 

 

 

 

これに対しては何故か我慢が出来たのでそのまま卒業しましたけど、同級生が事故で亡くなって、そのお通夜に行ったときも周りが振り返りましたよ。そんでわたしの顔を見ながらヒソヒソ話してるんです。誰もわたしに話しかけないことからも、その話の内容は疎むものでほぼ間違いなかったと思います。

 

 

 

 

当時で卒業して5年も経っていない時点でこの体たらくです。

 

 

 

 

相手の立場にたつこともできない。

もし自分がその立場にあったらということも考えることすらできない。

 

 

今も昔も、ブスにはそんな1つの実践が難しいようです。

 

 

 

 

そんなことから気持ちも上がらないので、ゴミに出しました。

大きめの袋に入れましたが、卒業アルバムは結構な重さがあります。

その重みが「なんとなく」といった気持ちを生み出し、わたしに展開させないようにしていたのかなと思いました。

 

 

卒業アルバムだから、というわけではないですが、学校時代の思い出には何かしらの「呪縛」のようなものがあったんだと思います。だからわたしの場合は整理の対象になりました。高校以外のアルバムも同様に「上がらない」ものになっていたので、これを機に整理しました。

 

 

以上ですが、卒業アルバムなどの「思い出」を象徴するものの整理についてはひとりひとりの基準が異なるので、あくまでも参考程度にしてください。本来なら卒業アルバムだって、気持ちがあがらなければならないアイテムのひとつであるはずなんですから。

 

 

 

これで本の整理は完了。次に取り掛かったのがCDのガラクタ整理でした。

 

 

※いじめに関する見解も立場が異なることでもかなり変わってきます。

過度な出来事は伏せてありますが、差別などを含めたいじめを受けたかどうかという傷は本人にしかわからないところが多く、一部の世界ではその基準に関しては寛大すぎるところが実情です。ここでいじめについてあれこれ論じることはしませんが、この世界にはそんな不条理なことも普通のように存在しているということだけ、お伝えしておきます。

 

以上、お見苦しい文章でした。でも書かなければ前へ進めませんでしたので書きました。

 

 

 

 

4月開催の各種ワークショップ、参加者募集中です。

 

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不意に早く起床してカーテンを開けてみたら、朝もやの彼方から日の出が飛び込んできました。

 

 


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これはうれしい。純粋にそう思いました。

 

 

ご来光を拝んだあとに引いたカード

 

 

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No.45「Changes(変化)」

 

 

キーワードは「現実の移り変わり」「改変」「修正」「変動」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変わりたい」

 

 

 

 

そう強く願ったことはあるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「変わりたい」

 

 

 

 

そう強く望んだことはあるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変わりたい」

 

 

 

 

 

そう強くこころに決めたことはあるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

わたしたちは、常に動いています。

 

どこかひとつの場所に、留まることはありません。

 

おなじ場所であったとしても、実際は立ち位置が変わっていたりします。

 

 

 

「わたしにはわかる」

 

 

こういった状況が日々の生活の各場面で起こることがありますが、それですら次の瞬間からは「わからなく」なります。それまでの「わかる」はもう、古いパターンや知識、習慣などでしかなくなります。それを基準に判断し動いていたとしても、周りとの波長が徐々に合わなくなってくる。遠巻きに「変化をしなくてもいい」と思っていることが、実は自分の変化・変容・変成をストップさせることに直結しているのではないでしょうか。

 

 

過去のおおきな判断に基づいて活動を行っていることもあります。

しかし今はもうその判断にとらわれることなく、修正をかけてその活動をよりよいものに変えていくことだってできるはず。

 

 

わたしたちにとって「過去」はもちろん大きくてとても大切なものです。

それを宝箱の中にしまっておくより、そこから更なる変化をもたらすための「エッセンス」とすることにより、その「過去」の価値は変わり、輝かしい「いま」に移り変わっていくのではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

 

変化のなかに飛び込む。

 

 

 

 

飛び込んだ先 にはなにがあるか。

 

 

 

 

 

 

乱気流の雲の中であっても、その先には青空が広がっています。

 

 

引き返すことを選ばず、その中に身を投じることで得られる変化がある。

 

 

 

 

 

 

苦しみや痛みなどの不快感があるからこそ、その先のエネルギッシュな自分自身が、はじめてそこでわかるのだと思います。