つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

繁忙期の創作⑳

オリンピックのテレビ中継を見ていると、超がつく凄い選手なのに涙をぽろぽろ流している光景をたくさん見た。それは結果に対する嬉し涙や悔し涙など、実に様々だ。その光景にささやかやに感動しつつも、そのような人たちでも涙を流すのかと改めて驚きを感じ取っていた。

 

その一方でこのオリンピックではメンタルケアが脚光を浴びたという。開催が1年延びたことで自分を保つことが難しくなった選手が数多くいたそうだ。自分にとっての1年は意外とあっという間なのだけれど、選手にとっての1年はどのようなものなのだろうか。この話を聞く限りでは、決して良いことではなさそうだ。

 

結果だけを求める人は、競技の世界でも仕事の世界でも普通にたくさんいる。

コンビニよりもぐんと多いだろう。その人にとって、結果は自分にとってプラスとなるかどうかの判断材料であり、結果が残せなければそれは意味のない、弱者であり、その人の人生に必要のないものとしてハンコが押される。まるで自分が最終の決裁を行ったように、自分が納得して選んだ、自分だけを良くしていくものだけをそばに置きたいという思想が新世紀になって蔓延ってきた。夏場の最高気温がじりじりと更新されていくように、アップデートがそういった人に対して行われていく。流行に遅れて固まらない様に。

 

この世はお金がすべてだろうか。お金は生活を成立させるためには重要不可欠のものだとはわかっている。だからこそ人は働いて対価を得、日常を送っていると考えているのだけれど、誰もが心のどこかで楽してお金を得たいと考えているのは自明の理である。実際はそう簡単(もしくは無理)なことではなくて、巧妙な仕組みを理解して運用した者のみが勝者としてピラミッドの頂上に一時的に到達する人がごくわずかにいるだけで、それ以外の殆どの人は、スタート地点にすら辿り着けていないことが多い。それをどうこう言っても仕方ないのだけれど、つまりはお金を稼ぐということは簡単ではないということを証明してしまっている。どんなに各方面において良いものを使っていてもお金が入ってくるとは限らない。そしてお金のあるところに人が集まり、理念やら愛やらを捧げてしまう実例は限りがない。人間はいつの時代も繰り返してしまっている。オリンピックのメダル候補が実際に競技を行い、結果が振るわなかったことで浴びせる言動の数々は、4年に1度じゃなくても日々どこかで繰り返していることの延長線上のことに過ぎないと。それをわかっていないのは、それはもう罪でしかない。

 

誰かにひどいことを言っておきながら自分に対する非難各種を犯罪行為だと断ずるのは理解に苦しむ。その行為自体は良くないことだとはわかっている。問題なのはそれを発信し判断する人間の「何か」だと思う。それはもう基準が大きく違っているのだ。そうでなければ、説明がつかない。いつのまにか染まりつつあるんだと思う。悲しいけれど、お金至上主義みたいなものが。ぼくは嫌だけど。

 

新型コロナの脅威が渦巻く中でのオリンピックが行われた。反対する人たちも多くいたけれど、実際に競技は行われてしまった。この事実に対して無謀だということは簡単だけれども、競技の世界で見ることの出来たとてもたくさんの素晴らしい光景を見ることが出来た理由を考えてみてもいいのではと思う。それが今後の世界にどのような影響を与えるかはわからないけれど、怒りに任せて忘れてしまっていた何かを教えてくれているような気がするから。

 

 

散文詩 ほんとのところ】