つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

デモがテロになる日。

さて今月も先月に続き、ニュース等で気になったこと、考えたことを短めに書いていこうと思います。最近考えることが少なくなったので、意識するようにします。

 

 

今日のお題ですが、安倍元首相の悲しい事件から想起しました。

この事件のあと、記憶ではNHKテレビの特集番組で、時期が離れて2回放送されたものを視聴しています。

 

 

今回の事件(または悲劇)ですが、選挙応援演説中の出来事となりました。

ある程度安全が保障されていた(はず)環境の中での出来事でしたから、この報道が流れた当初は理解するのに少し時間がかかりました。

 

今回の安倍元首相の事件は、自作の銃による犯行でした。

これは「テロ」だとする見解が、事件後幾つかの番組で議論されています。

 

 

テロ、という言葉ですが、正式には「テロリズム」と言い、意味を確認すると、「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いること」のようです。

ウィキペディアより

ja.wikipedia.org

 

果たして容疑者の目的が「政治的な目的」だったのかは判別が難しいところですが、現代においてはテロという現象は、政治的な目的とは離れた場所にあるものではないかという考えがぼんやりと、個人の中ではあります。

 

 

 

ニュースでは世界で、そして日本で「デモ」が開かれている様子が流れてきます。

デモとは、「ある特定の意思・主張をもった人々が集まり、集団でその意思・主張を他に示す行為である。」とされています。

ウィキペディアより

ja.wikipedia.org

 

あれ、書いていて気づきましたが、デモがテロに変わる要素が、ふんだんに含まれているのではないでしょうか。

 

 

なんとなくですが、デモは「アピールする」だけの行為だと思っていましたが、これを不服とする人たちが近年増えて来たように思います。そうなると次は「テロ」になります。穏やかなものであってもなくても(そういうものがあるのかどうかという話だけれど)、自分たちの主張を「わからせる」行為に発展するのは、自明の理だと思います。こうなるともう、自由だの何だのと言っていても、規制に走らざるを得なくなります。危険な可能性を広げるための「自由」は、本来の自由とは違う気がするからです。

 

これからの日本は、デモに対して今よりもピリピリするかもしれません。

デモがテロを生み出せば、ひとつの自由が崩壊することを、忘れてはいけないと考えます。