つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

盲目という毒はすぐそばにある。

北海道新聞9月27日朝刊国際面に気になる記事を見つけました。

 

見出しは「カルト信者400人集団死」。

ケニアで起きた出来事で、カルト教団による集団死亡事件が起きたとのことです。

死因は餓死で、絶食によるものとみられています。

 

カルトの定義についてここでは触れませんが、宗教の始まりは純粋な「救いを求めるこ心」なんだと思います。あくまでの表現です。

しかしながら、カルトと称されてしまう一番の原因は、教義に過激さが含まれていくことにあると思います。記事内では「神への罪を犯す前に死ぬべきだ」との考えが広まったとされており、同時期に絶食がはじまったそうです。

これが救いになったのかどうかは、生きている人にはわかりません。死んでからわかるかどうかはこれまたわかりませんが、生きている状態でいろいろわかるというのは、原則としてないと思います。世の中には、自称がたくさんいますけどね。どうせ信じるのであれば、そういった自称者よりも、昔からの言い伝えのほうを信じたいです。

 

 

この教団は「教育は罪」「医療は悪」といったことも考えとしてもっていたようです。

なんだか日本でも似たような雰囲気を持つ団体がいることを思い出しました。自国内ではそのような主張も話半分に聴いてしまいますが、場所が違えばと思うと、背筋がぞっとする想いです。そして、こういった過激なこと、結果として間違っていることを「正しいこと」として自分の考えを傍におかずただ信じていくのは、盲目でしかありません。そのような状態ほど、他者の声を聴かなくなり、その考えを押し付けてしまいます。そうなるとどんな内容であったとしても、結果それは「糾弾される」ものに変わってしまうでしょう。

 

こういった偏りを持つ動きは、宗教だけに留まらず、いろんなビジネスにも用いられています。「これは本当に良いものなんだ」と胸を張って語っていたとしても、その仕組みの中で動いているのであれば、それはすでに盲目の中に生きていることを証明していることになります。そういった人たちが次々に現れ、そして消えていく。しかしながら、組織だけはいつの時代もあり続けます。これからの時代、わたしたちが豊かに生きていくためには、その考えは徹底的に排除しなければならないのではと、強く考えるのです。