がらくた整理を続けていると、ときおり興味深い現象に遭遇します。
これまでは必要だと思い、残していたものが、ある日突然、不要だと認識するのです。
なぜ、このようなことが起こるのだろう?少し考えてみました。
いま、必要と感じているのは、いまという時間軸での価値基準になると思います。
その価値観はあくまで「いま」だけのあいだ効果を発揮するものであり、今後についてはその限りではない、と推測されます。
要するに、「いつまでもこれは必要」というものは、多くあるようで実際はそんなに多く存在しない、という結論に至ります。
その多さの基準はひとそれぞれですし、これが確実という訳ではありませんが、時間の経過とともに、そのひとの価値観が著しく変化し、結果、自身の持ち物に対する見方が変わっていると言えば、わかっていただけるかもしれません。
そういったものは、何かしらの整理を行っているときに、特に感じることだと思います。
「これ、大事にとっておいたけど、もういらないな。」
漫画のような、ドラマのようなセリフですが、実際にこのようなことはあると思っています。
このようなことを感じた中でいえることは、がらくたは「出てくるもの」ではなく、「見えてくるもの」ということが出来そうです。
これまでは必要と思っていたものが、ある日突然姿を変える。
なぜ姿が変わったのかと振り返ると、価値観の変化が思いつく。
それはあらゆる持ち物についても言えますし、人間関係にも言えると思います。むしろ、人間関係に当てはめてみると、わかりやすいかもしれません。
心は、移り変わる。
不変のものは、ありそうでなかなか見当たらないのかもしれません。
そういった事実、または現実がありながらも、それに目を向けようとしないひとたちも増えてきています。目を向けようとしない、というのも少々乱暴な言い方ですが、詰る所は、その変化を受け容れようとしない傾向が強くなってしまいます。昨今、そういった価値観の判断すらしようとせず、かなり大きなくくりでしか判断の基準を設けない、もしくは最初から判断することはひとつであるかのような姿勢で生活するひともいます。これは考えることの放棄につながりますし、精神的な衰弱を招く結果につながります。
がらくたは、どこの家庭でも生まれ出てくるものです。
逆に言えば、がらくたが出ない家庭はない、ということになります。
じぶんにとってはがらくたでも、他者から見れば価値のあるものも確かにあります。
しかし、それを気にするあまり、捨てられない、捨てようとしない動きも、確かにあります。
じぶんでどうすることも出来なければ、それはがらくたになります。
いかにたくさんのモノを抱えても、その両手でどれだけのことができるかを考える習慣を、少しでもつけていって欲しいと考えています。
がらくた整理は、ただモノを捨てていき、減らすという行為だけが目的ではありません。
だから、減らしたからいいことが舞い込む、というのは、半分の正解でしかないのです。
今後は、少しずつでも、そのことについて書いていきたいと思います。