つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「不幸せ」は、必要な。

何かしらの媒体に触れていますと、サクセスストーリーをはじめとした成功体験に遭遇します。その中身を見てみますと、挫折や絶望に代表されるおおきな出来事を経験していることがままあります。文字でも映像でも、その部分をフォーカスすることで感情移入がしやすくなるのかな?と考えてもしまいます。

 

では、そういった「堕ちる」または「堕ちそうになる」経験は必要なのかという疑問が浮かんできました。この世の中にはそういった経験をしないで生きている人も確実に存在します。経験しているのとしていないのとではどちらがいいのか?という議論は今回はなしにして、人が往々にして経験するであろう「不幸」は、実は幸せへ向かうための副産物のような気がしてならなくなりました。

 

ですが実際問題、この「不幸せ」ですら、ケース別にして選別してしまう動きはあります。

要するに、受け止めることが出来る不幸せと、忌み嫌い、理解しようとしない不幸せです。

「受け容れる」とか「受け止める」ことを推奨しているスピリチュアリストについても、その辺の選別はしてしまうようです。つまりは、自身の生活においてはそりゃあプラスになることだけ(表面だけ)受け容れたくなるわな。ということ。

 

 

けっこうあちこちでは、こういった「ネガティブ」全般は自身の成長ですとか、古来からの課題解消に向けて必要なコト、つまりはエッセンスなのだということは言われてきているはずなのです。が、実際は偏った感情や思考に支配されてしまい、一部の不幸せをとばっちりのように感じてしまっているようです。ざっくり言えば、冷静は判断と熟考は出来きていない、ということに落ち着きます。

 

 

目の前に起きた不幸せは、やはり感情などを激しく揺さぶります。

怒りや憎しみ、悲しみなど、平常心に保とうとする一切のものを排除します。

しかしそれは、「通常」であろうとするものからの変遷であるのではないかという可能性を考慮したならば、そのショッキングな存在も、ひょっとすれば・・・という気がしています。

 

 

ぼく自身、その不幸せをきっかけに、自分自身に「誓いという名の呪い」をかけました。

その不幸せの対象たる人はそのことはまったく知りませんが、結果としてこの「呪い」は、良かったのだという認識でいます。解くのにはしばらくの時間がかかりましたが。

呪いは、ひょっとしたら存在しないのかもしれませんね。

反対に、祝福も然り、ということになるでしょうか。

 

いずれにせよ、生きているあいだに経験するものごとは、その人を「なんとかする」ためのものだということは、どうやら言えそうです。