つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

がらくた整理は。

きょうまでに約10kg、70点近くに及んだ荷物の発送がひと段落しました。

それらの荷物はかつて自分がコレクションしていたもの。それはそれは大層大事に保管していました。

 

 過去記事(この時点から少し増えています)

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

これを「手放す」と決めた大元のきっかけは、現在も続けている「がらくた整理」。

増やすことによる安住ではなく、減らすことによる安定をこの身と心で学びました。

 

モノは、際限なく増えていきます。

だから、手放すという動作も、限りがありません。

つまりは、掃除や料理同様、日常の出来事の様に行われるべきものではないか、と感じています。

 

 

 

 

春が近づいているせいでしょうか、テレビや雑誌などでは、「収納」に関する特集を見かけます。それに合わせてその道の有名人がイベントに参加したりなど、各方面で表に出ていらっしゃいます。

 

正直言いますと、その活躍が羨ましいですし、ぼくも認知されたいな、と本音で思います。でも、ぼくが目指しているものとは何か違うと、感じてしまいます。

 

減らすことも、そして収納も、どちらも大事です。

でもなんとなくなのですが、「収納」にばかり、焦点が当てられがちになっているような気がしてなりません。また、「減らす」ことに対する解釈の大切な部分をカットし、都合のいいような言葉だけを並べているように見えます。だからという訳ではないと思いたいのですが、結果中途半端な整理整頓になるのではないだろうかと、想っています。

 

 

 

きょう、荷物を発送した後に飛び込んできたことばは

「がらくた整理は、究極のDIYのひとつ」

だということ。

 

今や代行サービスはこれでもか、というくらいにあります。いっそのこと頼んでしまうことも出来る時代。しかしそれでは「結果」のみを手に入れる「だけ」。なんとなくですが、その「結果」だけを手に入れれば、幸せになれる、充実した生活を送ることができると考える人が多くなってしまったように思えます。それは、会社における「結果主義」というのが、少し独り歩きしてしまったのだろうと考えています。

 

「日曜大工」ということばがあるように。

自分で何かをする。やってみる。という、結果ではなくプロセスを見て行うことも大事だと、ぼくは伝えたいです。もちろん、プロセスだけでもだめです。結果だけでもダメです。ひとはたぶん、どこかで安易な選択をすることによって、とても大切なものごとを「見落として」しまうのではないかと思います。それはひとによってそれぞれ違いますから、これだということは言い切ることは出来ませんが、いま見えるこの社会や世論、あるべき姿勢などを考えていくと、たとえ反発したとしても、その重要性は否応なしにわかるのではないかと思います。

 

 

 

きょうの午後、バッグいっぱいに荷物を詰めて発送に出向きました。

ひと段落ついたと思った瞬間、「まだ」減らせるものがある、と確信しました。

 

 

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途中経過。そして・・・

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箱が空になりました(すべて落札されました)

 

 

無理くりな表現ですが、「悟り」は一度開けばいい、というわけではありません。何回も「悟り」は開かれるし、開かれる必要があります。がらくた整理を「自分自身で」行うことによって、いろんな考え、そして新たな発見を見出す。このプロセスがあってこそ、「しあわせ」ばかりを求めていた「人生の結果」に、ひとつの大きな風穴を開けるのではないかと、考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は書類の作成ばかりで、あまり文字を書く気持ちが起きなかったので、恒例のモノを持ってこようかと考えたのですが、いざ書いてみると一気に書き上げてしまいました。まだまだ、自分で自分のことをよくわかっていないようです(汗)まずは書いてみる。これもまたDIYだなと思いました。

整理棚からひとつかみ。 ジャズ編 その46

【Series Sideman of John Coltrane

 

Cannonball Adderley Quintet In Chicago

 

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UCCU-5032

 

 

1.Limehouse Blues
2.Stars Fell On Arabama
3.Wabash
4.Grand Central
5.You're A Weaver Of Dreams
6.The Sleeper

 


personel


Julian Cannonball Adderley(as)
John Coltrane(ts)
Wynton Kelly(p)
Paul Chambers(b)
Jimmy Cobb(ds)

Rec:Feb 2,1959

 


キャノンボール・アダレイ代表作のひとつ。必ずと言っていいほど「名盤」関連の本にはこの作品は掲載されていると思います。
アダレイもコルトレーンもともにマイルス・デイビスのグループでの演奏を経験しています。
そういった意味ではとても貴重な経験を積んだふたりが織りなす新しい「ジャズ」をここで展開していることを考えると、つい「いいねぇ~」と唸ってしまいます。

アダレイのサックスは、それはもうおブイブイのブリブリです。
これでもかというくらいのアプローチをしてくれます。
コルトレーンもそれに負けないくらいの人なのですが、ここではやはりアダレイが一枚上手といった印象を受けます。


1950年代のジャズは「ハード・バップ」の時代と言われていますが、この作品はそれを象徴するものかもしれません。


とはいえ、このアルバムには「ジャズ」が詰まっていることは、確かなことだと思います。

【思い切って】ONE OK ROCK の≪We are≫の英文歌詞部分を和訳(意訳)してみた。

英語の楽曲を聴いて、感動して、ちょっと和訳してどんな歌詞なのかを知りたいな、というのは、外国語勉強の入口としてはままあるケースだと思います。

 

勉強しなさい!と言われてやるものほど、頭に入りにくいものはありません(汗)やっておけばよかったと後々想うことはあるのですが、動機が動機なだけに、定着しにくいというのが多くあると思います。

 

 

 

年末年始のことでしたが、NHKのある番組を見て、ひとつの歌に心奪われました。

単純に涙腺が緩いだけかもしれませんが、その番組を見て、歌を聴いて涙しましたし、自身の様々な出来事と重なって咽び泣きました。

 

その歌の名は「We are」。

 

今や世界的なバンドになった「ONE OK ROCK」の楽曲です。

 

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

 

その後アルバムがレンタルになり、かなりな頻度でリピート再生して聴き込みました。

そして久々にというか、珍しくと言ってもいいほどなのですが、この英文の歌詞を和訳してみよう!ということになりました。

 

歌詞の和訳と言うのは比較的多くのかたがやってらっしゃって、実際に和訳をする前に、ほかの方のブログを拝見して「こういう意味なんだ」というのをイメージしながら歌を聴いていました。

 

ただ聴きこみを続けていると、どこそこがよく耳に残る、といったようなことがあったため、自分なりの和訳(意訳)をしてみたい気持ちになりました。

 

 

 

あの日、あの番組を見た気持ち。

そして、歌を何度も聴きこんだときの昂ぶり。

それらを踏まえたうえで、どんな歌詞和訳になるのか。

 

決して英語に明るくないのですが、いま出来るだけのことをやってみようという気持ちで和訳を行いました。これが絶対!というわけではありませんので、「こんな和訳もあるのねー」程度に見ていただければ幸いです。

 

 

では、歌詞和訳(意訳)を、ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

「We are」

 

作詞:Toru・Taka・Brittain Colin・Long Nick

作曲:Toru・Taka・Brittain Colin・Long Nick

 

アルバム「Ambitions」 4曲目に収録

 

 

 

 

We are

 

We are

 

We are

 

We are

 

They think that we're no one

(ぼくたちはひとつではなかったと思うんだ)

 

We're nothing, not sorry

(しょうがないさ、無力だったんだから)

 

They push us

(誰かがこう、はやし立てるんだ)

 

It’s too late, it’s too late

(もう手遅れさ、もう遅い、ってね)

 

Not going back

(もう、元通りにはならないってことさ)

 

 

 

夢は終わり 目を覚ます時 絶望や希望も同時に目を覚ました

 

鏡に映った 僕が問いかける

 

自分を誤魔化し 生きることに意味はあるか

 

 

 

When you're standing on the edge

(もう、どうしようもなくなったとき)

 

So young and hopeless

(絶望や無力さが際立ち)

 

Got demons in your head

(ますますぼくは悲観的になる)

 

We are, we are

(待ってくれ!)

 

No ground beneath your feet

でもそんな証拠はどこにも見当たらない

 

Now here to hold you

(さあ、ここで軸を立てるんだ)

 

'cause we are, we are

(だってぼくたちは)

 

The colors in the dark

(パンドラの箱にある、絶望の中の希望なのだから)

 

 

 

酷く痛む 鼓動は早く

 

遠のく景色を この手で掴もうとした

 

 

 

They are the weakest

(ぼくたちはこのうえなく脆い存在だ)

 

They don’t even know

(これ以上のことは、何も知りたくないんだ)

 

Anything they say

(そういった中で、誰かがこうつぶやいた)

 

Will never break our hearts of gold

(ほんとうのプライドは、何人たりとも打ち壊すことはできないと)

 

 

 

When you're standing on the edge

(窮地に立たされたとき)

 

So young and hopeless

(この上ないお粗末さやマイナス思考が)

 

Got demons in your head

(ぼくの脳内を破滅的にする)

 

 

 

We are, we are

(いいや、違う!)

 

No ground beneath your feet

(それは誰かが決めつけただけの話しでしかない)

 

Now here to hold you

(だから今からでも、ぶれない軸を立てるんだ)

 

'cause we are, we are

(なぜって?だってぼくたちは)

 

The colors in the dark

(たったひとつの希望なのだから)

 

 

 

Never tell yourself

(決めつけてはいけない)

 

You should be someone else

(それが他の誰かのことであったとしても)

 

Stand up tall and say

(ひとり立て。そして声を出せ。)

 

I'm not afraid, I'm not afraid

(大丈夫。何も怖くない、と。)

 

So never tell yourself

(レッテル貼ってはダメだ)

 

You should be someone else

(誰かが直面していることであっても)

 

Stand up tall and say

(ひとり立て。誓いを立てろ。)

 

I'm not afraid

(怖れるものは何もないのだ、と。)

 

 

 

When you're standing on the edge

(絶体絶命のピンチになったとき)

 

So young and hopeless

(とても未熟で、すぐに諦めてしまう)

 

Got demons in your head

(考えることが破滅的にさえなってきた)

 

 

 

We are, we are

(それでも。)

 

No ground beneath your feet

(それでも、そんな根拠は証拠はどこにもないんだ)

 

Now here to hold you

(だから今こそ、きみ自身を認めてあげようよ)

 

'cause we are, we are

The colors in the dark

(だってぼくたちは、夜明け前の闇にあらわれた、眩い太陽なのだから)

 

 

(日本語歌詞部分:Toru/Taka(ONE OK ROCK))

※日本語歌詞部分は、意訳に合わせるのではなくそのままとしました。

 

 

~感想~

 

辞書を引きながら直訳を起こし、そこから意訳していく時間帯はとても楽しく感じました。ただ、表現力の幅はまだ狭いなと実感しています。それでも、自分なりに曲のイメージと、この曲が何を伝えたいのかは見えてきました。

 

受験勉強のときの英文和訳はそれほど楽しいものではありませんでしたが、好きな曲を訳していくというのは、とてもいいきっかけになりそうです。野外活動をする際には海外のかたともお話しする機会がありますので、そこまで実力を高めていきたいとも思いました。

 

なお、歌詞和訳とはいっても「意訳」になるので、単語本来の表現からは外れている場合があります。イメージとしては、和訳した文章のイメージから、他の表現を使うといったような感じです。未熟さを感じましたが、反面、わくわくさも感じました。拙い表現で恐縮ですが、少しでも何かを感じていただければと思いました。

 

 

【ここから加筆】

 

この曲は、希望がないさまを表現しています。

でもどこからか、それをやわらかく否定し、自分のなかにある光、希望を見てという語りかけに変わります。

 

曲調を意識しながら聴いていくと、それは叫びに聴こえることもあれば、いまにも途切れるくらいのか細い声で、無力感を表現しているように伝わりました。

そこから、「何言ってんだ!」というような、力ある声が響き渡ります。

イメージとしては、完全に松岡修造さん(笑)

「なんで諦めるんだよ!」「まだこれからじゃないか!」といった、激励が聴こえてきます。歌詞の中では、これでもかというくらいの表現でどん底さを出していましたが、勇気づけるさま、元気づけるさまはストレートに思えました。そんな印象すべてを意訳に込めることは出来ませんでしたが、何か一歩、前に踏み出すことが出来た感覚が残っています。完全アレンジになってかえって失礼になってしまうかもしれませんが、オマージュというかたちでまったく違う作品に仕上げてみてもいいのかな、と。

 

ともかく、意訳をやりました。これをやることができたという結果に、満足しています。

最初から何もできないわけではない。やろうと思ってやってみたら、意外と出来ることはある。

 

そんな気持ちと、実感を与えてくれる、お気に入りの歌の意訳でした。

チャンスがあるときにこそ。仙台、また来ます。~ダンマの思い出⑬~

梅雨が明けた頃に「ヴィパッサナー瞑想」の合宿を終え、ダンマーディッチャを後にしたぼくは、まず東京の友人を頼り、数日滞在した後に都市間高速バスを利用して宮城県仙台市へ移動することにしました。

 

 

 

前回の日記でも触れましたが、仙台には少なからず思い入れがあります。

 

それは

・母方の祖父母の出身地

・大学の同級生が住んでいる土地

 

などがあり、一度訪れてみたいと考えていたのです。

 

 

 

移動方法は幾つか思案した末、バスでの移動にしました。時間はたっぷりあったので、身体に負担をかけない方法での移動が望ましかったのです(瞑想後まだ体力がついてきていない)。高速バスの料金もリーズナブルで、かつ移動時間もさほど長時間ではなかったため、バスでの移動を決断しました。

 

とはいっても、移動のほとんどは高速道路を走ります。本当は海岸線を見たかったのですが、バス移動では海岸線を見ることは出来ませんでした。それがちょっと残念です。また訪れたいと考えているので、今度は海沿いの移動にしたいと思います。

 

 

 

 

記憶ではお昼ごろにバスに乗り、夕方に仙台へ到着。バスターミナルで降車し、辺りを見回してみてみた仙台の印象は、大都市に思いました。震災の面影など、どこにもないくらいに。

 

それでも、ここで数年前に大きな地震津波が襲い、大きな混乱を招いたのだと考えると、鳥肌が立ちます。北海道でも過去大きな地震津波が襲ったことがありましたが、それをほうふつとさせる恐怖です。そんな苦境に立ったとしても再び立ち上がっているさまをみて、純粋に感動しましたし、活気づいているのにも驚きを感じました。

 

 

 

この日は市営地下鉄でしょうか、仙台駅から数駅離れたところに取ったホテルで1泊。

体力が追い付いていないため、外出はせず部屋のなかで過ごしました。

 

翌日は、1か所訪れたいところがありましたので、そこへの行き方をリサーチしていました。

 

 

その場所は、「ニッカウヰスキー 宮城峡蒸留所」でした。

 

www.nikka.com

 

 

 

ニッカウヰスキーNHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」で一躍有名になりました。

 

北海道には余市町にある「余市蒸留所」が有名であり、ぼくもよく訪れます。竹鶴さんとリタさんのお墓にもお参りに行かせていただいたことがあるくらい、ウイスキー好きでもあります。本州では山梨県北杜市にある、サントリー白州蒸留所へ訪れたこともあります。蒸留所は言い換えれば工場なのですが、環境に配慮したこの場所は、自然を敬い、自然を畏みつつ、自然と共存している感覚を持ちました。

 

 

 

ニッカの宮城峡蒸留所へ行くには、二通りの方法があります。

 

それは

・仙台駅からバスで移動(バスターミナルから乗りました。)

・JRで最寄りの駅へ行き、そこから徒歩またはタクシー

 

という方法になります。

 

 

場所柄、山形県との県境近くにある蒸留所なので、仙台市の端にあたります。

 

ぼくは行きはバス(しかも1時間くらい乗ります)、帰りはJRで駅に戻りましたが、かなり時間的余裕を持たないとだめです。バスもJRも、そんなに本数がありませんので注意が必要です。こういった予習をしてこなかったため、帰りの交通には少々難儀しました。加えて雨の天気であったため、結構肌寒い1日になりました。

 

 

また、余市蒸留所と比べると、宮城峡蒸留所は見学可能場所が少ないです。

ちょっとそれは残念なのですが、余市蒸留所にはない風景を見ることが出来ますので、そこに関してはよかったと思っています。あとは、蒸留所限定のお酒ですね(笑)

環境に配慮した運営と言うのは、とても勉強になります。今回は完全趣味の世界ですが、とてもいい勉強になりました。

 

 

 

JRで仙台駅へ戻った後に昼食を取り、駅周辺を散策してから、再び高速バスで北上します。

 

次は青森県

そこには、大学時代の友人が住む土地でもありましたし、近くて遠い場所でもありました。

距離的には近いはずなので、よく訪れているところは関東地域。東北はまったくご縁がありませんでした。そのため、今回のこの機会に、いっそ北上しようと考えたのです。

 

想えば修学旅行以来の東北訪問になります。

見慣れない土地を見ることも、刺激のひとつになりますから、仙台同様、青森に行くことも楽しみで仕方ありませんでした。

 

 

 

実質、仙台の滞在時間はおよそ24時間。

ホッパーのように、ぼくは次の場所へ旅立ちました。

【活動報告】札幌市・永山記念公園にて雪遊びをしてきました。

きょうはもさっと雪が積もりましたが、それまでの数日間は気温がプラスになるなど、比較的過ごしやすい天気になっていました。

 

しかし時折強風が視界を奪うこともあり、札幌市の近隣にある長沼町という場所でホワイトアウトが原因と思われる事故が発生。

 

また、今シーズンは高速道路が事故でよく通行止めになっています。

路面変化の状況や急なホワイトアウトによる感覚のマヒなど、実にさまざなことになっています。

 

 

 

札幌市(北海道各地域)は先週から冬季アジア大会が行われ、連日ニュースのスポーツコーナーで取り上げられています。傍目からは外国人観光客が多くなったとは思えないのですが、局所的に見ていけば、国際色豊かになっているのかなと思います。

 

 

 

 

そんな中、久々に野外活動をしてきました。

今月は複数回参加表明をしてあったものの、祖母の葬儀が入り、またその後の燃え尽きが重なり、2月は1回のみの活動となりました。

 

 

 

今回活動してきた場所は「永山記念公園」。

 

意外と知られていないのですが、札幌市には「サッポロファクトリー」という商業施設があり、そのすぐ隣にこの公園はあります。

 

また、名前の「永山」は何かと言いますと、この敷地に「永山武四郎」さんという方の家があるのですね。その家は文化財として保存の対象となっており、そこを憩いの場所とすべく、公園が出来たということになっています。

(旧永山武四郎邸は現在工事中のため利用不可です)

 

この公園は特徴的な場所にあることから、訪れるのは近所のかたが中心だそうで、あまり遊具もないのがちょっと物足りないなと仰っていました。

 

 

 

この公園で行われたのが「永山記念公園を楽しむ会」。

 

毎シーズン恒例で行われているイベントのようです。

 

 

 

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このイベントは行政と公園の管理を委託されている業者、そしてぼくが所属するまるやま自然学校の共同開催となりました。

 

内容は、

・雪遊び

・薪ストーブでぬくぬく

・炭火でいろいろ焼いて食べてみる

 

のほかに、写真にもあるように、公園の今後の利用について考えるワークショップとパネル展示が行われました。

 

 

 

 

雪あそびについてはいくつかのコンテンツを用意しました。それが

 

 

・イグルー

・ブランコ

・綱渡り

・雪玉づくり

 

 

です。

 

 

イグルーは雪のかたまりを切り出し、それを積み上げて住居のようなかたちに仕上げていくもの。会場設営を終えたあとに、せっせと雪のかたまりを「スノーソー(ソーはのこぎりのこと)」とスコップを使って量産していきます。

 

積み上げたあとは出入口となるトンネルを掘り、晴れて完成です。

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 鋭意制作中の画。ブロック状のものをスノーソーで切り出しています。

 

 

 

ブランコは大きな木の枝をお借りして、そこからロープを吊り下げてセッティング。

 

綱渡りは太い木と木のあいだに2本、上下にロープを張ります。

上段にあるロープをつかみながら渡ることに挑戦するのですが、結構バランスを取るのが大変です。

 

 

雪玉は100円ショップにおいてあるようなアイテムと、小さなボウルなどを用意。型抜き感覚でいろんなものを創ってもらうことにしました。

それに加え、面白いなーと思ったのが「カラーボール」づくりで、色の材料はなんと「入浴剤」!何でも染まりやすいのだそうです。こんな遊びがあるなんて驚きでした。

 

 

 

 

各々がそれぞれの持ち場でセッティングを行い、ほぼ会場と同時刻に親子連れが数組参加してくれました。

 

そこからが早い!

 

あっという間に会場はこどもたちのはしゃぐ声でいっぱいに。

最初は雪に対してか、雪で作ったものに対してかは不明でしたが、おっかなびっくりだった小さなお子さんも、時間が経つにつれ好奇心のほうが勝り、怖さはどこかへ吹き飛び、満面の笑顔で遊ぶようになりました。

 

 

こどもたちの流れは

 

 

  1. イグルーとイグルーづくりで使用した道具で雪切り体験
  2. 雪玉づくり
  3. ブランコ

 

 

と、段階的に興味が移っていき、なんだか民族大移動を見ている感じ。

その中でも、ひとつの場所でじっくり遊ぶ子もおり、個性があっていいなぁと感じていました。

 

 

大人たちが用意した出し物を、100%どころか200%活用してくれるのが、子どもたちのいいところです。子どもたちには、一般的な常識は通用しないときがあります(笑)。だからこそ、時折「純真なこどものように」といったフレーズを使ったセリフなどを聞くことがあるのだと思うのですが、シンプルに言えば、子どもたちの考えは「枠に囚われていない」のです。もうまっしぐらなわけです。時にはカッコよさを求め、ときには責任感を発揮する。こうと決めて取り組んだ時の姿勢は、大人も見習う必要を感じます。

 

 

 

ぼくはイグルーの近くにいましたのでスノーソーの使い方や体験などを担当していたのですが、スノーソーが珍しいだけに、子どもたちの喰いつきも凄いものがありました。午後からは暖かくなってきてしまったので硬い雪を切りだすことは出来ませんでしたが、子どもたちは「もう1個イグルー作って!!!」とおねだりしてましたし、自分たちでも材料を造っていました。しっかりとルールを守る姿に、微笑みを感じました。

 

 

 

受付の近くでは薪ストーブと七輪があり、暖を取ったり軽食や飲み物を取ることもできました。マシュマロやお餅も焼いていて、いい匂いが漂っていたりしました。

子どもたちはさすがにチャレンジ精神旺盛で(笑)、イグルーのなかで食事したり、雪の塊をテーブルとイスにして食事をとるなど、非日常を楽しんでいましたね。子どもならではです。

 

 

今後の公園利用を考えるワークショップにもたくさんの参加者がおり、ポストイットに「こういった利用が出来たらいい」といったことを思い思いに書いていらっしゃいました。おそらくどこの公園でもそうなってくると思うのですが、公園に限らず、あらゆる場所は「活用」されなければどんどん活気が無くなります。その後その場所には建物が立つなどの変化を余儀なくされます。

 

この公園はこれから長い期間、この地域の憩いの場所としての役割を果たすことになります。有効活用というのは表現がカタいですが、たくさんのひとが日常的に利用してくれるためには、官民相互のアイデアと行動力が必要になってきます。これからの時代は、こういった交流の場所が生む効果というのを考えていくことになっていくんだろうなと思いました。

 

 

 

 

さて、子どもたちはというと。

 

ずっと、アクセル踏みっぱなしです(笑)

つまりは、疲れを知らない、といった感じです。

この日は、通しでずっと遊んでいる子どもたちが何人もいました。

 

一度お昼で家に戻り、その後また来てくださった親子もいらっしゃいます。

スタッフは共通のスタッフ証を首から下げていましたので、子どもたちとも、親御さんともたくさんお話をさせていただきました。そのお話も、大事な役目のひとつであります。

 

 

こどもたちは次第に体を動かす遊びに移行していきます。

 

ブランコのほかに、小さな雪山があったのでそこでそりすべりをしたり、独自の遊びを行うなど、終始活発に。ブランコに関しては違う木の枝まで届く距離までこいでほしいと言われることが多く、付き添いでしばらくのあいだ勢いをつけていました。

 

 

 

 

このブランコ遊びの場で、ひとつの変化というか、驚きを得ることになりました。

 

 

ブランコの勢いをつける担当をしており、実際にブランコに乗っている子の足先が遠くの木の枝に触れるさまを見て、順番が出来ることがありました。

子どもたちはからだを動かしたがっていましたので、惰性でどうしても動いてしまいます。

踏み固められていない場所もどんどん踏み固められ、場所によっては滑りやすいところも出来てきます。

 

そういった状況のなか、何度かブランコが移動する直線上に子どもたちが入ってきてしまうということがしばしば起こり始めます。

これを口で注意するのですが、理解するよりも先に足が進み、ぶつかりそうになることが何度かありました。咄嗟に反応するのも難しく、また、すぐにぶつかってしまうということはないタイミングだったので、安心して見ていました。

 

 

ところが、ひとりの子が、足を滑らせてしまい、態勢を崩した状態でブランコが動いている範囲内に入ってきてしまいました。

 

ブランコを設置した際、足元を掘っており(足がぶつからないようにするため)、その段差のところで態勢を崩してしまいました。またその場所は子どもが通りそうな細い道になっていました。足を滑らせたこどもは段差の下に滑り降りたところに、ブランコが迫ってきたのです。

 

 

 

 

その刹那。

 

 

 

 

身体が勝手に動いていました。

 

 

足を滑らせた子と、ブランコのあいだに入るように素早く移動し、片手でブランコの勢いを殺しつつ、足を滑らせた子を保護していました。

 

 

 

もちろん、双方に怪我はなし。

結果ひと安心だったのですが、子どもたちも次第に疲れてきたのか、ちょっとずつ危ない状況になってきたため、こちらもそれに合わせてコントロールすることにしました。

 

 

何が驚いたのかと申しますと、

この「身体が勝手に動いていた」ことなのです。

 

これまでのことを振り返ると、動き出さねばならないときに体が「動かなかった」経験がありました。結局その時に出来たのは、声を出すことだけでした。自動車学校に通っていたときの学科で教えられたことですが、状況を認知して行動に移すまで多少の時間がかかるといったようなことを教わったと思うのですが、これまでのぼくはその「行動」にすら移すことが出来ないことが、幾度かあったのです。

 

ところが、今回の出来事では考えるより先に身を乗り出していました。

これは、自分にとってとても大きな変化であり、違いです。

この違いを生んだのは何だろう?と考えてしまいますが、この変化を歓迎しています。

とても前向きな変化だと感じたからです。

うまく説明できませんが、やっと「出来た」という感じになっています。これまで出来なかったことが、ようやくできるようになった。その場では感慨にふけるほどの余裕はありませんでしたが、敢えて言えば「成長した」「変革を起こした」ようなものです。

一歩前進した、というよりは、なんだか「やっとひとつになってきた」ような感じです。

 

 

 

 

 

 

そんな感覚を得た後は、いつの間にか鬼ごっこに参加し、鬼にされ、バリアーに逃げ込まれたため誰一人捕まえられず(笑)呼び名も「スタッフさん」から「先生」へと移り変わり、いかにも小学生らしい単語のオンパレードになりました。

 

 

 

勢いは衰えないまま、終了時間となりました。

最後はこどもたちでイグルーを壊すというもの。

残念ながら、そのまま残してはおけないのです。

しかしながら、本気で壊しにかかる子どもたちの体力(笑)

 

もう、完敗です。

 

 

 

 

お陰様でというか、翌日起きたら筋肉痛になっていました。

これも、身体にとってはとてもいい反応です。

こどもたちのパワーは半端ないですが、それに全力を尽くさなければいけないなと常々感じています。でも、身体がついていかないんですよね。だから、出来る範囲でも、子どもの本気に対しては真正面から受け止めようと改めて思いました。

 

 

 

 

こういった活動が、各地の公園で広がるといいですね。

 

 

 

 

さぁ、2月も残り数日となりました。

雪かきが辛いですが(筋肉痛で)、しっかり過ごしていこうと思った、まとまった積雪があったいちにちでした。

 

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イグルーにも色づけ。

 

整理棚からひとつかみ。 ジャズ編 その45

【Series Herbie Hancock

 

Thrust / Herbie Hancock

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SRCS-7025

 

 

1.Palm Grease
2.Actual Proof
3.Butterfly
4.Spank-A-Lee


parsonel

Herbie Hancock(elp,D-6 clavinet,arp odyssey synth,arp solist synth,ahp 2600synth,arp string synth)
Bennie Maupin(ss,ts,saxello,bcl,afl)
Paul Jackson(elb)
Mike Clark(ds)
Bill Summers(perc)

1974年8月、サンフランシスコ:ウォーリー・ハイダー・スタジオ

 

ハービー・ハンコックの「ブラック・ファンク」の代表作のひとつ。
この年代のアルバムを一気に聴いていくと、なるほどなぁと感心。
これはこれで面白く、ノリノリな気分になるのです。
でも、頻繁に手を伸ばすかと言われると「そうではない」という意見も。
こういった作品に触れることが多い人であれば・・・という気もありますが、個人的には感情やテンションを増幅させるドリンクのような気がしています。

 

 

 

 

 

 

気が付いたらこんな時間 orz

 

きょうは夕方からまとまった雪が降り、時間がとられてしまいました。

からだがふたつあれば。コピーロボットがあればと久々に思いました。

不具合去って、また不具合。

1週間ほど前のことだったと思うのですが、投稿したはずの日記が画面に反映されておらず、その日だけ抜けていた状態となっていたことを日記にして触れました。

 

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

明確には覚えていないのですが、状況としては下書きフォルダに格納してあった執筆済みの記事を、いちどは「予約投稿」の設定をしていたものの、後日その設定を解除。結果違う日にちに手動で投稿したら、反映されていなかった・・・というものでした。

 

 

 

その局面に最初は「何がどうなってるの」かさっぱりわからず(汗)、ひとまずカスタマーセンターへ問い合わせし、自分でできることはないかと試しつつ、返信を待ちました。

 

 

 

 

返信いただくまでには相応の日数がかかるようで、それは仕方ないと納得しつつ、せっかく毎日書いていたけど、これで途切れても仕方ないな・・・と思いながら、リアクションを待っていました。

 

 

そして、数日前に返信をいただくことができました。

はてなさん(担当さん)、ありがとうございました!

 

 

以下、抜粋ですが内容をそのまま書きますと

 

-------------------------------引用ここから----------------------------------

 

確認いたしましたところ、記事の投稿日付自体は「2017-02-14 10:00:00」となっているように、2月14日付けでの投稿となっておりますが、

(上記は当方が手動で設定を変えた状態のもの)

 

カスタムURLについては、「2017/02/07/100000」となっているようでございます。

 

※カスタムURLは、「設定」>「詳細設定」における「記事URLの設定項目で「標準」を設定している場合、日付と投稿時間がそのまま形式として設定されます。

 

 

 

カスタムURLが2017/02/07/100000という表示となっている可能性の1つとして、

 

2月7日10時に予約投稿が設定されており、2月7日10時のタイミングで記事が1度投稿されたためにカスタムURLがこの形式となっていたなどの可能性がございます。

 

 

 投稿日付自体は、問題なく2月14日付の記事として設定されているようでございますので、

 

URLの形式が気になる場合には、お手数ではございますが、下記手順にてカスタムURLをご変更をお試しください。

 

なお、カスタムURLを変更されますと、以前のURLでのアクセスを行うことはできなくなりますのでご注意ください。

 

-------------------------------引用ここまで----------------------------------

 

 

 

と、どうやら「カスタムURL」のほうで設定された日時のほうを優先していたようで、それでうまく反映できなかったようです。

 

 

 

 

現在は問題なく表示されているので、この件は一件落着。ブログをあげた時には、一度確認でブログそのものをチェックしたほうがいいなと感じました。

 

 

 

 

ブログはこれで無事解決したのですが、今度は別なところで不具合が。

 

それは、オークション等での発送でお世話になっている「クリックポスト」です。

 

 

今朝から発送のために入力しては印刷するというのを何度か繰り返しており、時間を置いてまた入力する必要があったのでログインし、マイページを見てみると・・・

 

 

 

 

 

少ないのです。

 

 

 

 

何がって???

 

 

 

 

入力して、決済して、印刷までしているのに、マイページにその履歴が残っていないものがあるのです。(決済件数よりも表示件数のほうが少ないという状況に)

 

加えて、印刷したにも関わらず、問い合わせ番号が発行されていないものまで。

このままでは、出した荷物の一部が返送されます。

 

これはさすがにいかんだろ、と思いつつ、問い合わせフォームから送信

ただ、時間が迫っている(集荷してからバーコードで引き受けの登録をするため)ので、念のためコールセンターに問い合わせることにしました。

 

 

 

 

 

が・・・・・・・・・。

 

 

 

 

コールセンターでは、わからないとのことでした(汗)

いや、問い合わせの内容にもよるとは思うのですが、どうやらクリックポストの専門の問いあわせ先はフォームからの入力のみになっているとのこと。

 

 

 

こりゃあもどかしいわ。

 

 

 

仕方ない。返送はたぶん確実だから、課金だけ重複しないようにチェックだけでもしておこう。

 

どんな返答が返ってくるか、ちょっと不安のほうが大きいです。

 

 

 

 

 

 

 

昨夜からとても風が強い、冷え込みも強まった2月末の出来事でした。

スピリチュアルは、魔法でもなければ、錬金術でもないのでは?

昨日は久々に歩いたため、今朝は少し遅い時間まで寝てしまいました。

 

加えて、正座をしていた足を延ばしたときに、足がつるようになりました(汗)

ヤバイ、完全に運動不足です。

 

 

 

昨日は珍しく午前中からサツエキ(札幌駅)周辺に外出。道庁に赴いたり、ステラプレイスに行ったりと、久々に歩き尽くした1日になりました。

 

 

夜は夜で「ねおすふらっとカフェ」という催しに参加。

ボランティアでお世話になっていた旧NPO法人ねおすのスタッフだった人たちと、その活動にかかわるひとたちが集まり、交流を行いました。

 

 

 

昨日の札幌は日中がとても暖かく、夜が冷えるという寒暖差がある1日に。

暖かくなってくると足元に注意が必要で、いつもよりは歩くことに気を遣います。

帰宅したときはすでに足がぐったりで(笑)、しばらくだるさが抜けませんでした。

 

 

 

 

これはいかん!と思ってます。早々にストレッチから始めよう。

 

 

 

 

とまあ(笑)、年月の経過によって「変化」していくものごとは、日常の中にたくさん出てきます。体調も、仕事も、お金も、人間関係も。挙げていたらきりがありません。

 

しかし、どのような状況においても、その変化の内容によっては、自分の力で、あるいは他人の力を借りて、打開していく、または乗り越えていくといったことが必要になってくると思います。

 

それは、わたしたち人間に与えられた「権利」でもあり、また「義務」でもあると思います。そのような表現が適しているかどうかというそもそもの話しもあると思いますが、少なくとも今の世の中では、「何かをしなくてはいけない」「何かをしていく必要がある」というような見方をするのが自然に感じます。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、いまはその流れに逆らう、もしくはその流れを無視する、といったような視点を持った書籍や人が突出して注目を浴びてきています。

 

 

 

昨日、ステラプレイス内にある三省堂書店に立ち寄り、本棚を眺めていましたら、その手のキャッチコピーを多用している本が平積みされているのを発見しました。そのタイトルだけで抱く印象(あくまで個人的です)については、

 

 

 

じぶん「だけ」主義

 

 

 

と表現すればいいでしょうか。

 

ひょっとしたら本の中身を読めば、違ったことを書いていらっしゃるかもしれないのですが、帯に書かれていること、そしてキャッチーなタイトルから連想すると、上記のようなものに落ち着いてしまうのです。

 

例文を出すとすると

「自分の笑顔のためには、誰かを悲しませてもしかたない。てゆーかそんなの知らないし」

 

 

という、アクのつよ~いものを感じてしまうのです。

 

 

 

おそらく、その背景にはそういったことの対極にあるものごとが重視されてきたのですが、それに「疲れて」しまったから、今度はその逆を行こう!というような感じ。それを助長するような映画がタイミングよく出てきたり、スピリチュアルなことを売りにして有名になる人など、ある意味時代に合わせたキャストが出てきているようです。

 

 

 

 

ぼくもある種、スピリチュアルを前に出したにんげんのひとりではありますが、そういった「主流」を見ていると、何だか自分のやっていること、やりたいこととは大きく異なる感覚を持ちますし、何より違和感を感じます。そもそもその人たちがどのような経緯からそのような主張をはじめ、広く展開していったかを知らないのであまり何かを言うことも出来ませんが、ほんとうに信じるに値するものなのだろうか???と考えてしまうのです。そのひとたちから比べると、圧倒的に無名な人間が言うのもなんですが(汗)

 

 

 

 

昨日の日記のなかで、こんな語句を書いていました。それは

 

 

今や数多くの人が言っていますが、スピリチュアルは「哲学」だということ。決して「魔法」でもなければ「錬金術」でもない。

これまで届かなかったものが、しっかり行き渡るようになった日。 - とみーのグラウンディング日記

 

 

 

 

というものです。

 

 

その根拠のひとつが、仏陀が語ったことをまとめたとされる「原始仏典」にあります。そこからお経というものに発展(と言っていいのだろうか?)していくことになるのですが、そこでは例えば「成仏」については書かれていません。幾つか読んだ限りでは、「悟り」ということばは出てきても、「成仏」ということばは出てきていません。加えて、ここでは今でいうスピリチュアル的な文言は一切書かれておらず、倫理・道徳のような、現代的なことが書かれているのみでした。

 

ではなぜ、スピリチュアルや宗教(似たものなので加えます)に、そのようなある種「特殊なもの」があると思われているのでしょうか。根源を見てみると、そういったものはなかったのに、です。

 

 

 

その理由のひとつが、現代に近づくにつれ、信仰の対価(もしくは恩恵)として「成仏」、そして後に「現世利益」が加えられたということ。この「成仏」と「現世利益」は、言ってしまえば根拠のない将来の保証のようなものです。「これは絶対に価値が上がる」と言って勧めている株だったり、投資話のようなものと一緒に思えてしまいます。しかしこれに敏感に反応したのが、スピリチュアルという分野になります。スピリチュアルは知られるところになってきてから、まだ若いです。言い換えると、「土台もまだ固まっていない」状態だと言えます。長い目で見れば、現在もまだ「黎明期」と言ってもいいかもしれません。そのような状態ですから、いわゆる「玉石混合」のようなかたちで、いろんな話が一気に流れ込みました。その混乱は、未だに治まっていない状態です。いや、傷口をかえって広げている状況下もしれません。ニュースにも取り上げられることがたまにありますが、あまりよろしくない意味での「ビジネス」に利用されている現実があります。現代は会社であれ宗教法人であれ、運営していくには資金が必要です。必要なのですが、その手法が悪い意味で巧妙ですし、心理的な効果というものをある程度理解し、活用しているということが言えると思います。

 

 

 

そういった組織や個人が「跋扈」してきているため、却って宗教やスピリチュアルから離れていくひとや嫌悪感を抱くひとは確実に増えましたし、逆にそういったことにのみ解決策を求めるひとが目立ってきたと感じています。

 

 

 

 

 

なぜ、スピリチュアルが「魔法」でも「錬金術」でもないのか。

 

現時点でのぼくのこたえは。

「仏様とか神様とか、サムシング・グレートと呼ばれる、ぼくたちが考える【いちばんうえ】の偉大な存在は、決して【しないから】」。

 

 

 

しかしながら、いま宗教家やスピリチュアリストを名乗る人の多くが、この偉大な存在の名前をかんたんに口にし、じぶんの想いに応えてくれると言っています。それはぼくが見る限り、決まって「個人的な」願いや幸せなどに限られています。

 

 

 

たぶん、誰かがこのような疑問に答えているかもしれませんが、皮肉を込めて言えば

 

 

「個人の悩みや願い、幸せに対して偉大なる存在が呼びかけに対して動くのであれば、なぜ多くの人が願う戦争や紛争などの終焉といったとても大きな問題に対しては何のアクションもしないのだろう」

 

 

という、素朴な疑問を、実はいうと結構前から持っています。

 

 

それに対する反論もありそうですが、少なくとも「とても小さな範囲」でしか展開されておらず、またその移り変わりも素早いので、信用を置くには難しいという見解でいます。

 

 

 

 

ちなみに現在のぼくは、どの団体(組織)、そして個人の下にも就いていません。

だからこれだけのことが言える(汗)、という訳でもありませんが、一定の宗教やスピリチュアルに接してきて感じたことがあったので、今回少しでも書いていこうと思いました。

 

 

 

 

 

なんとなくなのですが、ひとは悩み事やこうなりたいということに対して、魔法のような一瞬の出来事のような感覚で、解決される、または叶えられることを望んでいるような気がしています。それを裏付けるように、路線が外れてしまいますが、宝くじが当たったり、白馬の王子さまが表れたりと、自分は労力をかけずに期待以上の効果や展開を求める風潮がだんだんと強くなってきていますし、それを助長、もしくは肯定するような人まで出てきている状況です。

 

 

 

 

仮にもし、スピリチュアルがこういった問題を一瞬にして解決する力を有していたならば、そもそもわたしたちにんげんが長い時間かけてしっかりと「生きる」ということに疑問を抱いてしまいます。もし、ある特定のスピリチュアルを実行することで「確実」に何かが実現するとなった場合、多くのひとたちは、努力を捨てるでしょう。じぶんの労力を、すべて「スピリチュアル」に注力することになってしまいます。そうなるとどうなるでしょうか。生活のバランスが変わり、価値観が大きく変わります。基準が変わり、信念が変わります。そして大いに「依存」が生まれることになるでしょう。そうなった場合は、個人としての才能や力量はほぼ骨抜き状態になることでしょう。そんな姿になったひとたちを、わたしたちはどこかで見てきたはずです。信仰の「自由」はもちろんありますが、「自由」の本質を知り、また「自由」のなかにも「不自由」はあるし、その逆もあるのだということを、心に留めておいたほうがいいのではないかと考えます。

 

 

 

 

神さま、仏さま、サムシング・グレートといった「大いなる存在」がもたらす「天の采配」または「天の計らい」。

 

それは決して、自分に都合の良い、プラスになるためだけの「スピリチュアル」がもたらした「魔法」や「錬金術」ではない。

 

 

 

 

いつの世も、そしてこれからも、にんげん自身がしっかりと「動いた」ことによる「波紋」が生んだ、次なる展開に他ならないことを、どこかで感じることが出来ればと思っています。

 

 

 

 

以上はぼくの夢想のはなしの、一部です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

アウトドア緊急対応マニュアル 藤原尚雄/堀内一秀 枻出版社 (58)

伝え方が9割 佐々木圭一 ダイヤモンド社 (59)