つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

【詩】天気予報と占いと

さほど気にしない人もいれば

 

1日1日が気になってしょうがない人もいる

 

確かな情報を求める人もいれば

 

人づてに聞いた話でじぶんの未来を賭けようとする人もいる

 

毎日それは伝えられ

 

最早日常に溶け込んでいるものなのだが

 

幾つも情報源があって

 

どれが正しいかではなく どれを信じたいかで採用を判断する

 

 

 

 

これほど不確かなものはなかったが

 

今ではかなりの正確さを持ってきているようだ

 

しかし必ず当たるとは言い切れない

 

外れることもあることを覚悟しなければならないのに

 

どうしてこう 当たると評判のところに行きたがるのだろうか

 

それほどに 道端の小石にも躓きたくないのだろうか

 

 

 

知っているはずなのに

 

この世界には 晴れも雨も曇りも雪も必要だということを

 

でもなぜ 自分の生活には晴れだけしか求めないのだろうか

 

それはもう臆病でしかない

 

それはもう畏れでしかない

 

そういったものを求める人ほど

 

喪うものは大きい

 

 

 

明日の運勢や予報はやはり気になるけれど

 

そのアドバイスに従って動きたくなるけれど

 

この世界はそれだけで動いているわけじゃない

 

アドバイスに反して お好み焼きを食べたっていいのだから

【詩】導火線

詩を紡いでいると

 

どこかで詩を紡ぐことでさえ苦しいと思うようになる

 

そうして詩から2mほど離れてみる

 

 

 

 

離れたところから詩を眺めていると

 

色んな詩人の色んな詩集が飛び込んでくるようになった

 

思い出したように手を伸ばし

 

便箋のページを性急に捲っていく

 

どうやら詩から離れたことで

 

詩をどうこうすることに渇きを覚えていたらしい

 

 

こないだのことなどまるでなかったかのように

 

ちっぽけな封印を解く

 

誰かが待ってくれている訳ではないけれど

 

誰かひとりくらいは青ざめるくらいの熱量を放出する

 

 

詩人は決して独りではない

 

詩人は詩と詩の周りにあるものに生かされる

 

 

 

引導を渡されるものだと思っていたけれど

 

逆に尻を叩かれるようだ

 

そうして私の中の詩人は生きていく

 

恥ずかしげもなく

 

そしてまよいなく

 

【詩】浮かばない夜に

気がつけば同じところを見たまま夜を迎えていた

 

止まない雨

 

どこまでも続く雲

 

鳥肌が立つ空気

 

思考が停止した手足が杭のように打ち込まれ

 

ただずっとその場に佇む

 

何も考えることが出来ずに

 

明日のことも浮かばずに

 

 

 

 

 

誰かが力強く

 

重たくなってしまった身体を促す

 

他の誰かがとても熱く

 

冷めてしまった心を介抱する

 

 

 

なぜだろう

 

どうしてだろう

 

 

 

 

 

同じ世界にいるのに

 

変わり果てた世界にいるはずなのに

 

 

 

 

知らずに過ぎていく時は意外とあっという間で

 

時に刹那さえも無限に感じてしまう

 

その彼方は何も保証されず

 

広い牢獄に繋がれているかのよう

 

命ひとつ手にしていたとしても

 

素直には中々なれない

 

 

 

 

 

気がつけば夜になっていた

 

雲はいつしか消え去って

 

無数の灯りが散らばる幕が広がっていた

 

なにも浮かばない夜に

 

確かに何かが植え付けられた

「源」は、いっしょ?

どうにも時事について書いてしまいがちなのですが、気になることをひとつ。

 

 

 

 

今年に入ってから、

 

いわゆる「あおり運転」

そしてテレビ番組出演者が自死したことで注目を浴びることになった「誹謗中傷」

 

 

このふたつ、「いじめ」と同じなのではないか?と思いました。

 

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うた。それよりも声。けどやはりその顔や人に。

テレビも自粛ムードが解けて来たかのように思う。久々に音楽番組を見た。それは録画したものを見たのだけれど、好きなアーティストが出るということでチェックしていたものだ。久々に動く映像とリアルな息遣いが見えそうな声を聴いて、やはり味気があっていいなと実感した。これまではCDやデジタル音源から聴こえてくるものが中心だったけれど、ブラウン管を通してのものはやはり大きく違うと思ったんだ。やはりうたはいいね。そして声。うたもいいけどそれよりも声だと思ったよ。

 

今朝がた母親から不在着信があって夕方に電話を掛け直した。お中元が届いたよっていう連絡で、美味しそうにデザートを頬張っているとのことだった。決して若くはない母が元気でいてくれればいいけれど、いつまでもそんなことは望めない。あんた貯蓄をしっかりやりなさいよと諭されつつも親子の会話はいつも15分くらい続く。今年のお盆は帰ったほうがいいだろうかと思いながら、母の声はやはり安心することに気づく。もうずっと前に聞こえなくなった父の声はどうだろうか。

 

スピーカーや受話器から聴こえてくる声よりも、顔が見たくなる。そしてついには人に逢いたくなる。忙しいのはわかっているけれど、どうしても用事があってコンタクトをとることもある。相手の忙しさを想像してのメールだったのだけど、返答として電話がかかってくることもある。相手の声が聞こえる。たとえ事務的でも、ぼくはとてつもない嬉しさが込み上げる。うたを聴く。声がいいと思い、その顔を浮かべる。そして誰かを思い出す。そして逢いたくなる。そんなロマンチックがあってもいいと思う。

不自由さを感じさせること

駄文です。

 

 

ぼくたちはどこか束縛を感じさせる組織や人間といった存在から逃れまたは解放され、自由になることを意識のどこかで望んでいるふしがあるけれど、実はそれって叶うことのないものなんじゃないかって思ったんだ。だってぼくたちは自由とはどんなものなのかを確りと説明することが出来るだろうか?自由というものを体現し、その身を以て証明することが出来るだろうか?普遍的な表現でしかない自由という言葉を発するだけで、実はそれがどれほどのことなのかをよく知らないのではないだろうか。そんな愚かさと恐怖を僅かながらに感じたんだ。世の中には楽をして生活をしたいという人がごまんといるし、実際そんな暮らしをしていますよ!といった自称者もいるけれど、空も飛べないし透明人間にもなれない、普段から不自由さを感じているはずなのにただただそんなことに対して目を背けているだけのような気がするんだ。動くことで重さも感じるし、疲れるし眠くなるし腹は減る。自由とはそういった不自由からも解放されることのように感じるんだけどそれは間違いなのだろうか。生きること自体が不自由だとしたら、死んで生きることが終わった時点で自由になるということが言えるけど、それも正しいかどうかはわからない。過去の偉人や現代の自称先駆者がほんとうにいろいろ言っているけど、どれが本当なのかは本当にわからないんだ。ただ一つ言えることは、不自由さから抜け出すことを目的とした色んな誘い文句は誤りだと思う。もしくは間違いだと言ってもいい。だってゆりかごから墓場まで不自由さを感じ抜いていると思うから。自由になろう、というのは、申し訳ないけれど向いている先が違うように思うよ。

「見えない」という迷信。

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朝方は曇りの天気だったのですが、夕方が近づくにつれ霧が濃くなっていきました。

北海道八雲町に来て、はじめて「じり」という言葉を耳にしました。

どうやら、濃い霧が出てきますと、そのような表現をするようです。

 

撮影している場所は牧場内ですが、霧が雲のようにじわりと近づきます。

近くの看板であればかろうじて見えますが、そこから先の光景(車庫などもありますが)は、霧の中に包まれてしまいます。

 

ちなみにこんな天気の中でも、子牛が1頭産声を上げました(写真右下)。

少し離れたところには、草を食む母牛の姿が確認できます。

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どんな「先」を見てる?

わたしたちは常に、今この瞬間の先のこと、つまり「未来」についてあれこれ考えてしまいます。

 

これは今この騒動があるから・・・という訳ではなく、もはや日常に根付く議題として存在し続けています。

 

古来よりこの「先」は運命における先手を取る行為として特別視されてきました。

それは現代においても同様で、自身の幸せや金銭的余裕をもたらすものと信じられています。

 

果たしてそうなのだろうか?

 

 

と、雨に打たれながらふと考え込んでしまいました。

 

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