親の老いに無防備だったぼくは、その状況に直面したらチキンになってしまいました。
3が日が過ぎたころ、親族に急病人が出てしまいました。
親族とは、母です。
週末に兄から電話が来て、ひとまず検査入院することになったと告げられました。
状況を聴くと、耳が聞こえづらい症状が断続的に続いていたとのこと。
それまでは寝れば治ったりするなど、気に留めるほどではない程度のものだったとのことでしたが、症状が改善せず、急きょ外来を受診することになったそうです。
夜が明けて朝一番で受診しに向かったのですが、外来の待合室で待機していたところ、移動の際に車内が悪路で揺らされたらしく、そのまま具合が悪くなり、入院の運びになったとのことでした。
この報せを聞いて、ぼくは自分が思っている以上に事を深刻に受け止めてしまっていたようでした。このような表現をするのは、過ぎた日を客観的に思い返した際に感じた、率直な印象です。
実際、その報せを受け取った夜は、満足に眠ることが出来ませんでした。
症状としては「難聴」に酷似したものなので、内科的なものではなく、緊急手術といった急展開にはならないのですが、ぼくは「入院」という単語を聞いただけで、何かの呪いというか、呪縛のようなものに捕まってしまったようでした。
どうしたらいいのか、わからない。
これが、この夜に感じていたことでした。
翌日。
母が入院している病院へ見舞いに。
病院のベッドに横たわる母を見たのは、これが初めてでした。
その姿を見た瞬間、からだ全体がきつく締め付けられました。
なぜ、そう思ったのだろうか。
そこに「老い」、そしてその先にある「死」を連想したからでした。
それも、今となってはおかしいこと。
それまで、親の「老い」は意識してこなかったのか?
いや、意識していたはずなのです。
それなのに、加齢による衰え、そして老いを見てしまうと、こんなにも胸騒ぎがする。
ぼくは、親がいつまでも「いる」ものと思っていたのだろうか。
そんなことはありえない。ありえないと思いつつも、真剣に考えてこなかった「浅はかさ」を今更ながらに痛感し、恥じました。
この複雑な心境を、どのように書いていけばいいでしょうか。
無論、表現したとしても、それはイコール、己の「甘さ」を露呈することにしかなりません。しかし、その甘さがあってこそ、学び、省み、整えることができるのではないだろうか。
幸い今回は、急病にかかったという状況下ではありませんでした。ただやっかいな症状ではあるため、自分自身の今後の方針をしっかりと考え、行動していかなくてはならないことを痛感しました。
そんな話を、見舞いを終えて帰宅した後に家人と話しました。
気持ちはもう、フルボッコです。
そして、思いがけず自分は「チキン」だと、思い知らされました。
何も覚悟が出来ていない。
ただ怯えているだけ。
ただ打ちひしがれているだけ。
そう感じたのです。
これからどうするかは、今回の件でかなり明確に見えてきました。
すぐに展開できるものではありませんが、これまでとは違った力強さを加えた足取りを、この先はすることが出来るのかなと思っています。
その後、体調が回復したため退院した母ですが、数日して再度入院となりました。
状況を確かめるために、本来は週末実家へ行く予定でしたが、まさかの再入院(汗)
前回ほどの焦りはありませんでした。そうならないように努めたつもりです。
どうやら最初の入院時、治療計画は出ていたものの、治療を行う前に体調が戻ったようなのでそのまま退院したそうです。そのため再度同じような症状が出てきてしまったため、一度しっかりと治療しましょうということになりました。
なんだよ・・・前回治療してないのかよ・・・(笑)(汗)
そんなことで今週またお見舞いに行くことになってしまいましたが、これも何かの機会だと捉え、大事なことを見過ごすことのないように気をつけていきます。そのように心がけ、自身の生活に反映させていきたいと思いました。
きょうまでに読んだ本
みる 文:谷川俊太郎 絵:髙橋常政 復刊ドットコム ※絵本 (12)
仏典をよむ 死からはじまる仏教史 末木文美士 新潮文庫 (14)