味方でありたい。
ぼくの信念のなかに
「嫌いにはなりたくない」
というのがあります。
距離を置く、というのは実際にありますが、心底その人を嫌いになることはしたくない。
そんな信念を、いつの頃から抱き始めました。
八雲町に移住してきて、色々と話を聞きます。
それはこれまでの経緯を含めた、その人なりの見解や評価になります。
そのため、あながちウソではないというものになります。
その話を聞いて、当初は「付き合い方を考えていかなくては」と想いました。
しかし、そればかり考えてしまいますと、身動きが取れなくなってしまいます。
そのため、積極的にではありませんが、その人を知ろうという姿勢になりました。
札幌であっても八雲町であっても、誰かが他の誰かのことを悪く言うというのはあります。ぼくに対して「Aさんは~」とか「Cさんは~」という話も入ります。
ぼくはずるい人間かもしれませんが、その場においてはその話に同調します。
何故ならば、その話に込められた気持ちまでもを否定したくはないからです。
そのため、ぼくはそれぞれの立場からくるネガティブな話ですらも、受け止めるようにしていますし、それが原因でそれぞれの人を嫌いにはならないと決めています。
しかしながら、この考えはリスクがあります。
仮の話として、AさんがBさんのことを「○○なんだよね~」と批判していたとします。
ぼくはその話に同調しながらも「その気持ちもわかるけど、考え方を変えてみたらどうだろうか」と提案してみます。
上記の話をまとめますと、Aさんの話しはひとまず理解する。しかし、ぼく自身はBさんのことを悪く思わないようにする。というものです。
Aさんの味方でありながら、Bさんも擁護するといった姿勢です。
しかし、この姿勢に対して理解がありませんと、「そっちの肩を持つのか」となり、途端に自分自身が嫌われ・疎まれる可能性が出てきます。最悪の場合、両方から嫌われ、疎まれ、敵視されます。
それでも。
そのリスクがあったとしても、ぼくはその人の味方でありたいと思っています。
もちろん、限界はあります。ぼくではどうにもできないと無力感を得ることもあります。
それでも。
ぼくはその人を「信じたい」という気持ちがあります。
ぼくはその人に、可能性を感じたいのです。
だから、嫌いになりたくない。
嫌いという感情を持ちたくない。
好き、とはまた違う感覚ですが、味方でありたいのです。
しかしながら、味方でいたいというものの中には少しながらでも「好き」という要素は含まれているのだと認めてはいます。難しいですけどね。
小さなマチであるからなのか、八雲町に移住してこのかた、誰かを批判する声を多く聴いていきました。それはもちろん、批判される側としてぼく自身も含まれていると実感しています。じゃあ、批判をしていれば何かが変わるのでしょうか?その問題が終わるのでしょうか?と考えると、不毛な行為に思えてなりません。ガス抜きにもならないような、不愉快感が増すだけの行為に思えて仕方ないのです。
ぼく自身も、批判の類の話はします。
それは流れ上、どうしてもという場合があるからです。
しかしながら頭の中では、「どうすればその状況が一変するだろうか」ということを考えています。わたしたちは常に「何かが足りない」状態であると言えますから、その部品が揃い、組み込まれれば、その批判も止むのではないかと想っているからです。
誰もが、実はもったいない状態だと思います。
だから、他人を責めるならば自分の状態を省みたら~と想ってしまう。
口には出しませんが 汗。
だって、それは自分も同じですから。
味方でありたい。
それは、ぼくと関わる人すべてに対しての宣言になります。
喩えが微妙かもしれませんが、るろうに剣心の主人公・緋村剣心が信念として持つ
「不殺(ころさず)」
と似たようなものだと自覚しています。
それを貫くのはまた苦しいことです。辛いことです。
それでも。
これまでもやってこれたのですから、残り時間も続けていくことに不安はありません。
だから、死ぬまでこの姿勢は貫いていきます。
あなたへ。
ぼくは、あなたの味方です。
それだけです。