つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

どこかの場所で意味になる。

いまの自分の住まいに八雲町の広報誌が届かなかったため、外勤の途中で役場に寄り、広報誌を取り寄せてきました。

 

町内のイベントは難しいですが、自治体が予定している行事を確認するには広報誌がいちばんで、デジタルも多用していますが紙への信頼が捨てきれません。

 

会社の名前が入ったジャンパーを羽織って役場正面入り口から中に入り、総務課へ。

何度も顔を合わせてお世話になった女性職員に事の次第を告げ、広報誌をいただきました。

隣のブースではすっかり顔なじみになった役場の方が視線を向けておられましたが 笑。

 

 

 

実は今月の広報誌、ぼくが文章を寄せています。

 

地域おこし協力隊の活動内容を紹介する枠が設けられており、3月号と4月号はぼくが文章を書きました。で、しっかりと添削が入っております 笑。

 

そこを読みたかったわけではないのですが、どうしてもそのページに目が行ってしまいます。

結果、自分で書いた文章のくせに、あれこれとケチをつけながら何度も読んでしまいました。

 

f:id:maruyamabase:20190411232159j:plain

たった1年。

されど1年。

感慨深い1年でした。

 

現在は既に別な場所で働いています。毎日忙しく、毎日が楽しいです。

八雲町の景色にも癒されています。もちろん、行く先々の人にもお世話になっています。

これほどよくしてもらっていいのだろうか。

これまでの肩書関係なしに、恐縮する思いです。

 

 

大層な表現になってしまいますが、ぼくが八雲町に来てどんな意味があるのだろう?と考えたとき、短期的な視点では答えに窮してしまいます。

その反面、現代人は短期での答えを求めている傾向にあります。年単位ではもはや遅いと判断されることも少なくありません。

では、長い時間をかけて出てきた「意味」は、価値や意味そのものがないのでしょうか?

 

それは「No」だと断言したいです。

 

この世界は時間差という魔法があり、その魔法がもたらす効果はかなり大きいです。

時間をかけて芽吹いた意味は、これまでの固定観念をかんたんに打ち破るものかもしれません。シンプルに言いますと、全否定していたものごとが世界などでは肯定されているといったようなイメージです。正直、そこに期待するしかないという部分はあります。だから、個人で期待しすぎるのは疲れると思います。

 

だとしたら、自分の手が離れたところで「意味」が出来上がれば。

そんなことをふと、考えるようになりました。

これもひとつの期待かもしれませんね。

 

もう、どうにも修復できないようなことなどたくさんあります。

一生否定され、一生理解されることのない。

無力を痛感する出来事に対して、生きていることが辛いと感じる時間を過ごしています。

それはどうして辛いのだろうかと振り返ってみたら、どこかで肯定され、理解されてほしいと望んでいるようでした。そこが苦しみや呪いを生んでいたようです。

 

 

これからの10年をどうしていくか。

10年はあくまで目安ですが。10年は長さの代名詞でもあるように思います。

 

ぼくが10年後、八雲町にいるのか?

ぼくが八雲町に来て10年後にどんなことが起こっているのか?

穿った言い方ですが、八雲町に呼んでいただいた意味を、これから必死で創り上げていこうと思いました。