住まいを移して早10日。
がらりと変わった景色にも少しずつ慣れてきた。
絶対飽きない自信が生まれた。
昔も今も変わらない「ナチュラル」がそこにはあった。
よく人は自然を引き合いに出しては現代の悪を突こうとする。
しかし実際は、その悪は限定的であったりすることがままある。
その悪を証明できないと、人はヒステリーを起こす。
それこそが、自然に反した行為のように思える。
(車中で撮影)
自然とは何だろう。
ナチュラルとは何だろうと、外回りの途中で考えを巡らせた。
山。
川。
草むら。
林。
海。
空。
太陽。
星。
それらを含めた数多のものを自然と言っては重宝し、都合が悪くなってはそこに回帰することを主張することが多くなったと改めて思った。
しかしここで素朴に考えたのだ。
それだけが自然か?と。
いま見える風景には
人間が作った、いわゆる人工物がある。
人工物とは言っても、その由来は自然の要素が含まれている。
だとしたら、それらを含めた光景も、「自然」であり「ナチュラル」と表現してもいいのではないかと考えた。
これも、自然でナチュラルなのだ。
自然がとはいいながらも、こういった環境の中で過ごす人は多い。
だとしたら、いちいち区別する必要などあるのかと疑問を持ってしまう。
もういちど、自然とは何かを考えるいい機会なのかもしれない。
自然の中にスピリチュアルはあるのかもしれない。
そして、わたしたちが創ったものにスピリチュアルは宿らないという保証はない。
ましてや、わたしたち自身が自然である。
自然が自然を生み出す。
生み出した光景は、自然そのものである。
それでいいじゃないか、といまは想っていたい。
薪ストーブのあたたかさも。
春の風の冷たさも。
陽射しに顔を向ける花壇の花も。
道路の先に続く光景も。
あの人の頑張りも、あの人の笑顔も。
今あるそれは、ナチュラルでしかないのだ。