つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

波風がなくても。

f:id:maruyamabase:20201112211535j:plain

車窓からの写真(停車して)ですが、思わずきれいだと思ったので撮影してみました。

山の上はもう雪化粧されており、そのコントラストに見とれていました。

 

今朝は気温がぐっと下がったのですが、日中は風もほぼなく穏やかな1日となりました。

雲も少なく、外回りした先では駒ケ岳や対岸の山々もはっきりと確認することが出来ました。

 

 

f:id:maruyamabase:20201112211806j:plain

夕焼けです。

 

周りにビルがあってもいい光景なのでしょうが、このような景色でも見飽きることはありません。以前では本当に考えられなかったことです。

 

札幌に住んでいたときは何が忙しいのかわからないまま、忙しさの中に身を投じていました。仕事上の忙しさもあれば、日常の忙しさもあります。今思えばどうして余裕がなかったのだろうと思うくらいです。

 

かといって移住した現在は忙しくないのか、と言われるとしっかりと忙しいのですが(汗)、よく言われるONとOFFの切り替えが以前よりできるようになったと感じています。確実に、心身のどこかで余裕が生まれ、育ちつつあります。

 

 

日々前進、もしくは何かしらの変化を求めていた頃は、疲れ方も相当のものだったと記憶しています。印象としては「燃費が悪い」そのもので、リターンを求めすぎていたのかもしれません。

 

 

現在は人間相手というよりも、自然相手となる場面が多くなったことで、求めすぎなくなったと言えるのかもしれません。少なからず人と接しなければならないのですが、やはりコミュニケーションは疲れる、と思うことが多々あります。対人と対自然の両方を経験させてもらえるという点で、恵まれた環境にいるのかなと思っています。

 

 

 

 

この状況下で思うことは、日々何かしらの変化を求めなくてもいいのではないか、ということです。何もない日=無意味、と以前では感じていた部分があったのですが、そんな日があってもいいじゃないかと思えるようになりました。これは年齢が影響しているのかもしれませんね。

 

 

わたしたちは、じっとしていることが苦手になってきたんじゃないかと思っています。それは「待てない」とかに似ているような感覚です。だけどここからは、じっとしている時間も必要になってくると思います。早急に変化を求めても、その変化が受け容れられるものかどうかはまた別の話です。その先で感情が荒らされるのだとしたならば、じっとしていてもいいのではないだろうかと思っています。

 

 

変なたとえですが、その場にとどまることで危険を回避した、みたいな状況は出てくると思います。何もしなくても(できなくても)、しっかりとその日を生きているのならば、それでいいのではないかと思います。

 

 

いいニュースではありませんが、冬の賞与はどうなる?といった特集が組まれていました。悲喜こもごもではありますが、お金は必要なのですが、そのお金にあまり右往左往されることのない生活を目指したいな、と思いながらお茶を飲んでいました。