つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

統治はより難しい時代に。

北海道新聞11月5日の社説に、日本大学の薬物対応に関することが掲載されました。

統治改革姿勢問われるとの副題がついております。

 

 

改革は見えてきているか

記事を読みますと、日大の数々の不祥事に対し、卒業生の林真理子氏が就き、陣容も改革を目指すことを目的としていました。

しかしながらその足取りは重く、逆にもたついているように感じます。薬物に対する対応は「穏便に済ませたい」という意向が見えており、即座に報告・対処をしなかったことで自浄作用がないのではないかという疑念がもたれています。第三者委員会の指摘もかなり厳しいところを見ると、「周りがどれだけキツイことを言っているか」というのが、内部からするとわかりにくいのではないかと思うほどです。

 

改革は中からもたらされるものと、外からもたらされるものがあります。日大の改革は果たして内外どちらになるでしょうか。

 

 

 

対岸の火事ではない

このような不祥事は、他の大学や教育機関にも飛び火する可能性があります。大きなニュースとして3年連続で私学助成が打ち切られたことが伝えられましたが、そのようななかでも「表に出さず穏便に済ませたい」という感情が働くということは、事の大きさんい実感が湧いていないように思えます。これが会社であればわかりやすいのかもしれませんが、学校という組織は急には止まれないことから、その苦しさが本格的に伝わってくるのは、まだ先なのかと思うほどです。

 

日大は薬物や悪質タックル、最近ではセクハラに関する報道がありました。学校側も統治をしているはずだと思いますが、学生のほうが自由になりすぎている感があります。その背景には親の存在もありますし、ネット等を介した外の目もあります。あまりうるさく言われないようにするためには、統治姿勢もそんなに強固にすることはできません。結局は抜け穴が出来、学生が問題を興し、学校に責任を求められるという流れが出来てしまいます。これはある意味、学校という組織はかわいそうでなりませんが、毅然とした対応を取らなくてはならないのが学校ですから、建学精神などに反する行為はその価値を自ら落としてしまうことを知るべきだと思います。

 

 

自己責任と管理監督の両立を

大学に入りますと、一気に世界が広まります。年齢関係なく社会が見えてきます。

その中で学生ひとりひとりを管理監督するのは実質困難です。あとは学生個人に任せるしかありません。いっとき「自己責任」ということばが流れてきましたが、これを手遅れの段階で感じさせるのではなく、もっと手前の段階で学びとして落とし込んでもらう必要があります。犯罪に手を染めればどうなるか、表面化しないまでも、誰かを傷つけることをするとどのように自分に返ってくるかなど、昔話ではなく現代でもあるということを明確に打ち出す必要を感じます。

 

 

この問題は様々な「大人」がそれぞれの思惑で動いた結果、事が収束せずかえって大きくなっている典型例だと思います。自分は大丈夫と思わず、いつ降りかかるかもしれないからと思うようにしておくのが、これからの生活には必要なのではないでしょうか。