とみーのグラウンディング日記

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

ライブレポート:さっぽろ市民寄席 平成開進亭 一之輔二人会 札幌エルプラザ 20170913 出演:桂枝光(かつらしこう) 春風亭一之輔(しゅんぷうていいちのすけ)

とあることから落語を聞くようになったのですが、関連の番組を見ることで「落語家」というとても大きい括りだったものが、ひとりひとりの顔が少しずつ見えてくるようになりました。

 

昨年は1回、道新ホールで生の落語を聞いてきましたが、それからしばらくその機会はなし。そしてつい先日、久方ぶりに落語を聞いて参りました。

 

 

maruyamabase.hatenablog.jp

 

 

 

 

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平成開進亭(へいせいかいしんてい)の名がついた寄席は、札幌にお住いの落語家、「桂枝光」さんが主導して開催しておられる催しのようです。枝光さんは毎回寄席で落語を披露するのですが、もう一人は本州から落語家を招き、二人会として定期的に会を開催されています。

 

以前そのスケジュールを見たことがありますが、まったくの無名ではなく、新進気鋭もしくは脂がのっている噺家さんを呼び、トップレベルの落語を披露してくれています。

 

今回行ってきたのは「一之輔二人会」。

前回同様、春風亭一之輔さんの落語を聞くことになりました。

 

 

 

場所は札幌エルプラザ。

地下鉄・JR札幌駅地下から直結でつながっている施設での開催となっています。

演目は、枝光さんが3つ、一之輔さんが2つというバランスに。

さぁ、どんな落語が出てくるか、楽しみです。

 

 

 

実は今回、初めての経験がありました。

 

それは「上方落語」を聞いたこと。

付け焼刃的な知識ですが、関西方面の落語を「上方落語」と言うそうです。逆に関東の落語は「江戸落語」とも言うそう。その違いに気づいたのは、噺家さんのステージ上にあるもの。上方落語の場合は噺家さんの前に机のようなものを置く一方、江戸落語に関しては座布団のみ。それ以外に大きな違いはないのですが、随分と趣が違うものだなと感じました。

 

 

 

 

 

 

入場時にいただいたパンフレットでは、一之輔さんの演目が「お楽しみ」となっており、実際に聞くまでわからないという状態になっていました。ただ会の終了後にはロビーでお楽しみの中身を含めた今回の演目を掲示してらっしゃいました。

 

 

時間にしておよそ2時間半、とても楽しかったです。

 

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噺家さんは、まさしく「言葉」のプロ。

 

言葉を「ただ話す」だけではもちろんありません。

 

そこが、噺家さんの個性、または腕の見せ所だと思います。

 

 

 

その姿勢を見て、自分ももっと精進しなければ、と正直に反省しました。

もっともがけばいい、苦しめばいいのだとも思いました。

 

しかし、ただもがき、苦しんでいるだけではだめです。

そこにはっきりとした意思がなければ、その意味すらわからず呆然としてしまいます。

その状態に甘んじていては、だめなのです。

 

 

 

テレビなどで何度か聞いてきた話も、噺家が違えば印象も変わります。

言い方としては「トリビュート」と表現すればいいでしょうか。

解釈・表現など、噺家独特のものがそこに注ぎ込まれ、まったく新しいものに生まれ変わるのだと思います。

 

 

 

 

とても満足した会でしたが、興を削ぐ出来事がふたつほどありました。

 

 

 

 

 

-ひとつめ-

 

開場前に並んでいたのですが、後ろにいたおばさん(略してBBA)が受付カウンター近くにさしかかったときのこと。

 

しきりに会場内を気にしていたようで、順番関係なしに中を覗きこむところを見ると、もはや常識や羞恥心のない、お手本とはお世辞にも言えない振る舞いで、その二人の会話も「下品そのもの」だったようです。

 

極めつけはそのうちのひとりが前にいた人たちを無視して係りにチケットを差出し、さっさと会場内に入ってしまったこと。

 

 

 

これでは、人様に何か偉そうに言うこともできないわな、と思ってしまいました。

 

そのBBAが座った場所は、会場内の階段席。そこにいち早く陣取ってはまたぺちゃくちゃと喋り倒していたようです(笑)幸い、ぼくと家人は「だいぶ」距離を取って座っていましたので、害はまったくありませんでした。

 

 

 

-ふたつめ-

 

演目を見て家人と話していましたら、「この会は一之輔さん目当ての人多いはずだから、枝光さんの最後の演目前にごそっといなくなるから」とポツリ。

 

はじめは、何のことかわかりませんでした。

 

詳細を聞きますと、この「平成開進亭」は桂枝光さんの主催。つまり、毎回枝光さんは高座に立ちます。いわば主催側に立つ人なので、ゲストの噺家さんよりも、一席ぶん話しが多いプログラムになっています。

 

具体的な理由はわかりませんが、つまるところ「枝光の落語は聞きたくない」と考えている人が、この日の観客にいるようです。そして、実際にいました。

 

一之輔さんの落語がすべて終わったあと。

ぞろぞろと席を立つ人が出てきました。

 

 

 

席を立った人の人数は目算ですが30人程度。

会場のキャパシティ(用意されたイス)から考えると、決して少なくないです。

そのほとんどが、階段席にいた人たちでした。

演者から見れば、その違いは一目瞭然です。

 

この光景に驚いた人もいたようで、一緒に来られたかたに質問していました。

 

 

 

 

その中のご婦人が

 

「まぁ~、失礼ね~」

 

 

と仰っていたのを耳にして、その通り、と思ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

なかには時間的な事情もあり、席を立たざるを得ないかたもいらっしゃったと思うのですが、明らかに「最後の演目は聞かない」という意思を持った人がいた、というのが問題です。

 

これは個人的な意見ですが、とかく最近は「○○の自由」などとさも権利を声高く叫ぶかたがいます。今回の件も個人的視点から見れば

 

「おれは客だ。金を払ってるんだから、どれを聞いてどれを聞くまいがおれの自由だ」

 

という主張があるものと思われます。

 

 

 

果たして、この考えは「正しい」ものなのか、ちょっと考え込んでしまいました。

 

「自由」とは「制限」のない状態を指しますが、何となく現代人は、この「自由」という言葉の「表面」だけを理解し、至る所で使っているように見えます。その姿は、決してスマートといえるものではありません。もはや、本来の「自由」が持つところの意義が、かすんでしまっているように感じます。

 

 

 

ひねくれた考えになりますが、上記のような考え方があるならば、主催者側としてお客を選ぶ「自由」があると思います。選ぶというのは適切な表現とは言えませんが、会の途中で席を立たない人に入場を勧めるといったこともできなくはありません。しかしこれをやると「横暴だ」「自由を奪うな」と非難にさらされるでしょう。個人的に思うところは、自由は個人の利益を第一に考えるところが多く、それが脅かされるならば公共性をも楯にして抵抗することを考えている人間が多いのだろうということです。

 

この現象を枝光さんも既に何度か経験されているようで、最後の演目の際、恨み節を言っては笑いをしっかりと取っていましたが、ダメージはあるはずです。観客の側も、上記のような上から目線というか、胡坐をかいた状態で過ごしていては、いつこういった貴重な機会がなくなっても文句は言えないと思います。逆に責任を求められても仕方ないと思います。

 

 

 

こういった会は、主催者の頑張りだけで維持できるものではありません。参加者の応援があってはじめて成立するものだと考えています。その関係性が崩壊したときのことを考えず、ただ自由だ権利だと主張しては場にそぐわない行動を取るというのは、こどもより性質が悪いと言えます。自由だと叫んでいながら、実際に起きているのは「自由な」状況ではないということを、途中で席を立った人たちには考えてもらいたいです。

 

 

 

落語はとても面白かったものの、一部の心無いひとたちの行動によって考えさせられることもあった1日となりました。

 

言葉は、わたしたちがその意味合いを「理解して」使用している。

それはひょっとしたら、ときにはとてつもなく大きな勘違いを生んでしまうのかもしれませんね。

 

 

そんなことを考えながら、勉強となった貴重な時間を過ごしました。