つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

功徳って何なのだろうか。

先日ですが、地域のお寺で行われた馬頭観音祭に参加してきました。

 

 

あまり仏教各宗派の催しは知らないため、毎回ドキドキです。

(接する機会はお葬式とかに限定されるので)

 

 

短い時間でしたが、そこで感じたことや考えたことを書いていこうと思います。

 

 

 

 

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 このお祭りの流れですが、

 

地域住民が集まる ⇒ 住職がいらっしゃる ⇒ 読経・焼香 ⇒ かんたんなお話 ⇒ 会食 ⇒ 解散

 

というもので、いたって普通でした。

 

ただ移住したからなのか、今や町内会でも誰かが集まり、そして何かをやるというのは少なくなりました。マンションといった小さな環境であれば積極的に行われるのかもしれませんが、だんだんとこういった光景は失われてきています。

 

 

住職がいらっしゃり、読経に耳を傾けていたときに感じたことは、

「ああ、このお経を詠むんだ。あれ?このお経も詠み始めたぞ・・・」

というもので、〇〇経だったら宗派は〇〇じゃないの?といった素朴な疑問が出てきました。個人的に宗派は気にしていないのですが、実際はそれぞれの特色がありますので、とても勉強になりますといいますか、刺激になるといいますか。何とも興味深いものがありました。

 

 

で、ここでひとつ面白い体験が。

住職が読経しながら太鼓を叩いているのですが、その読経のリズムにあわせて風がひゅ~っと吹くんですね。その緩急たるや、完全にこのお経に合わせているかのようでした。不思議なことといいますか、面白いこともあるんだなと思った瞬間でした。

 

 

 

で思ったのは、「これは功徳ではないだろうか」というものでした。

 

いつしかですが、人が神仏を信仰しますと、「加護」や「恩恵」そして「功徳」などが得られると説かれます。ざっくりいえばささやかなご褒美みたいなものではないかと個人的には思います。

 

じゃあそのご褒美ですが、信仰している人が「のぞむもの」そのままが与えられているかと言えば、決してそうではないと思います。寧ろ異なるのではないでしょうか。

 

 

人間とはわがままないきもので、ご褒美に関しても功徳に関しても、特定の物事に絞る傾向があります。まさしくピンポイントでお願いしてしまいます。それが残念ながら外れてしまいますと、「〇〇が足りない」といった説法やら指導やらが入ります。そうして再度ピンポイントの功徳を求めて人は信仰の道を歩みます・・・

 

 

あくまでですが、上記のようなことでは、「どんな功徳」もそれだと感得することが出来ずに終わってしまうだろうと感じましたし、そもそも功徳って?と思ってしまうのです。そもそも神仏(いればの話ですが)はいち個人に対してそのようなことを施されるのか?とも。そうなると功徳に代表される信仰者へのご褒美というのは、一種の「方便」であるとしても大きくずれはしないと考えました。

 

 

 

個人の経験として、数十年間この功徳を求めた活動をしてきましたが、それを「手放して」からはそういったものを一切意識しなくなりましたし、より一層偉大な存在を感じることが出来るようになったと思っています。

 

特定の教えを信仰し、その道を進むことについてはいいとも悪いとも言えませんが、場合によっては視界が曇ることも十分にあります。そのことを自覚することが出来れば、信仰のなかに身を置いていたとしても、中庸に立った考えや判断が出来るのではないかと思いました。

 

 

 

 

今回参加した行事は仏事でありながらも同時に地域の大事な行事になります。

そのどちらかだけが大事なのではないということを、学びました。