きょうは、大事なひととの別れについて書き遺そうと思います。
きょう2月10日が、大事なひとたちとの、別れの日でした。
そのひとりが、ぼくの父になります。
ぼくの父はぼくが中学1年のときに糖尿病による症状が原因でこの世を去りました。
「人間五十年」という敦盛の唄は有名ですが、父はその「五十年」を生きることが出来ませんでした。
父との思い出を、書き遺そうと思います。
小さい頃の残っている記憶では、父は仕事帰りが遅い人でした。
いまは普通に午後の9時10時など起きているお子さんが多いと思いますが、当時としては眠ってしまうのを何とか我慢しながら父の帰りを待っていた、という状況です。
そのときに定期的にやっていたのが「電リク」。
電話による楽曲のリクエストでした。
AMラジオだったはずなのですが、リクエストによる投票で順位を決める音楽番組があり、それを聴きながら父の帰りを待ちつつ、黒電話のダイヤルを回していた記憶があります。
しかも記憶に残っていたのは「チェッカーズの新曲」(笑)。
小さい頃はろくに曲名など覚えていなかったようでした。
家族で出かけた思い出はひとつだけ。
車で連れて行ってもらい、どこか崖のようなところの近くに停車させました。
その崖というか、奈落の底のような光景が、こども心に怖かった記憶があります。
次に記憶が残っているのは、一気に小学生になった時点まで時が進みます。
このとき、父は既に糖尿病を発症していたようでした。
当時糖尿病は「ぜいたく病」と言われていたようです。
実は父がどのような仕事をしていたのか、大人になるまではっきりわからなかったのですが、どうやら営業のような、外回りのような仕事をしていたようです。そのため外食が多く、またジュースなどもたくさん飲んでいたようです。
一日中臥せっている父を見て、こどもながらに父は病気なのだと思いました。
それが治るかどうかというのは、今思うとまったく考えていませんでした。
それはたぶん、このままずっと父がいるものだと思っていたんだと、思います。
父の病状は意外にも重く、授業参観日や運動会など、学校の行事に参加することがほんとうに難しい状態でした。ただ1度だけでしょうか、ごはんのときに合わせて父が学校のグラウンドに来てくれた記憶があります。そのときはどんなお弁当か忘れてしまいましたが、一生の思い出になったことは言うまでもありません。
父は週2回ほど、透析に通っていました。
透析は思った以上に体力を消耗するようで、透析が終わって帰宅した父はほんとうに調子が悪そうにしており、すぐに横になってしまうほどでした。付き添っている母もたいへんそうでした。何度か衝突している姿を見ました。それがとても辛かった記憶が残っています。
そんな生活がずっと続いていたので、父と一緒に撮った写真が少なかったです。
おそらく、最後に撮った写真が、小学校の卒業式に出席する前、自宅で撮影したものだと思います。当時は、まさかこれが最後の写真になるとは思ってもみませんでした。
それから1年も経たないうちに、父が亡くなります。
もう25年以上も前の話しです。それでも、昨日のことのように憶えています。
あの日は、土曜日でした。
その日ぼくは教室で理科の授業を受けていました。担任の担当する授業でした。
授業中に他の先生が担任の元を訪れ、短く会話した後に「冨澤、すぐ帰れ」と声を発しました。兄が既に自宅にいるらしく、すぐに病院に迎え、と。
何がなんだかよくわからないまま、自宅へ戻りました。
そしてタクシーに乗り、父が透析を受けている病院へ向かいました。
いったい何が起きていたのか。
想えば、当時の状況を家族に聴くことはしばらくのあいだありませんでした。
また、聴いても真面目にというか、しっかりと答えてはくれませんでした。
それはその話しを聞こうとしたとき、ぼくがまだ大人ではなかったからなのかもしれません。しかし、いま聴いても同じかもしれないなと、思っています。
おおよそ聴いた話(記憶に残っている話)はこうでした。
当時父は透析中だったようなのですが、血糖値が高いため血管を流れる血液が固まるという症状が出たため、危険な状態に陥ったそうです。そのため透析を中断し、集中治療室に移動して必要な措置を行っている、とのこと。
この話を聴いたところで当時中1のぼくには、何がなんだかわかりませんでした。
ただ、家族の表情がいつもと違う。これはただ事ではないということだけはわかりました。
その後父と話が出来る状態になり、家族で面会。
しかし、透析が途中でストップしたままで、どうしても続けなければならないとのこと。
かんたんなことばを交わし、父は再び透析治療に向かいました。
その後の記憶は飛び飛びなのですが、その姿を見てぼくはどうやら気分が悪くなってしまったらしく、面会者の休憩室のような場所で横になり休んでいました。
どれくらいの時間が経過したのか、まったくわかりませんでした。
少し調子を持ち直したかも、と思ったそのとき、一緒に面会に来ていたひとがぼくを呼びに来ました。
その声には、悲痛なものが込められていました。
走りました。
何も考えずに、ただ走りました。
父が横になっているベッドを囲むように、家族や医師、看護婦さんたちが立っていました。
ぼくがその場に辿りつき、吸い込まれるように父の傍に来るよう促される。
ほどなくして、時計を確認した医師が、永遠の別れを告げました。
2月10日、17時5分。
父は、ついに元気になることはありませんでした。
長い時間、父のとなりで泣いていたと思います。
その後、どうやって家に戻ったかは覚えていません。
葬儀が終わるまで、ずっと泣いていたことだけは記憶に残っていました。
その後、ぼくは母子家庭で育ちました。
母は、大変だったと今更ながらに思います。
父がもう受け答えしてくれない状態になり、ただ泣くしかなかったぼくは、父の前で「母を守る」と誓いました。それが果たされているかどうかは自分での判断はしにくいですが、こどもながらに「父の代わりにぼくが」という気持ちでいたのだと思います。
家族3人になり、ぼくが成人してから、父の若かりし頃などを耳にする機会がありました。
父は当時結構ハイカラな性格だったらしく、服装にもこだわりをもっていたそうです。
親戚を中心に父の話を聴くなんてことは思いもよりませんでしたが、ぼくの知らない父の姿を垣間見ることができ、ほんとうによかったと思っています。
また、先日大往生した祖母からも父の話をしてくれたことがあります。
父との思い出が少ないぼくにとっては、誰かの記憶に残っている父の話が、とてもいい思い出になっています。
毎年、この2月10日には必ず父を供養しています。
甘いものやらお酒を、一緒に食べています。
日頃は父のことが頭にない状態が多くありますが、決して忘れず過ごすことが出来ています。いまどこで何をしているかはわかりませんが、きっと元気でいるだろうと思います。
何年前の話しだったでしょうか。
実家から、8mmフィルムが出てきました。
今でいうハンディカムのような録画機もあり、凝っていたことがわかりました。
ただ当時またはその前は、8mmフィルムを見るための方法がなく、また機械も故障していたため、フィルムのほとんどは廃棄してしまっていたようでした。
しかし、2つだけ、フィルムが残っていました。
そのとき、ビデオテープや8mmやフィルムをDVDに置き換えてくれるサービスが始まったこともあり、高額ではありましたがDVDにしてもらいました。ひとつは状態が悪かったのか、原因ははっきりとわかりませんでしたが、無音の状態での映像がひとつと、もうひとつは音声が入っている映像になっていました。
これを、実家で、家族と家人とで見たことがあります。
映像の中身は幼い頃のぼくたち兄弟を撮影したものだったのですが、幼い頃の兄の声、そして母の声が入っていました。母の声、若いです(当たり前ですが)。
そこに、父の声が聞こえてきました。
父はその映像に入っていなかったのですが、おそらくフィルムを回していたんだと思います。
そのフィルムを回しながら、
「祐二」
と、ぼくの名を呼びました。
この瞬間、その場にいた全員が涙しました。
その時点で20年ほど、父の声を耳にすることはなかった、ということもあります。
しかし、このとき聴こえてきた父の声には、懐かしさ以上に込められているものを感じました。
それが「愛」でした。
お恥ずかしい話なのですが、ぼくは父に可愛がられていたのかどうか、まったく記憶がありません。記憶が残る頃には父は既に病床の人だったので、とても不安だったのです。子育てという点については母も父の態度はよくわからんと言っていましたから、ずっと疑問に思っていたのです。
ただ、その疑問が、映像に残っていた声ですべて氷解しました。
ごく当たり前のことかもしれませんが、ぼくはここで「答え」を知ることができました。
この答えを知ることが出来て、ほんとうによかったと思います。
父が逝ってからしばらくのあいだは、「枕元に立って」とずっと願っていました。
また、大人になってからも辛いことがあったりすると、父の存在を求めていました。
しかし、きょうまでただの1度も現れてくれたことはありません(汗)
身内になれば「悪霊だろうがなんだろうがまったくお構いなし」というのが、ちょっとおかしかったように思います。未熟だった頃は(いまも大して変わらない・・・)、すぐに父を思い出しては咽び泣いていたことがありました。いまはほぼなくなりましたが、神様とか仏様とか、そういった存在と同じような立ち位置で、父のことばを求めていたんだろうと思います。
不思議なことに、この2月10日というのは、大事な人との別れの日のようです。
ときはそれぞれ異なりますが、父以外にも、大切なひとと別れてしまって(以後逢っていない)いるのです。
その方は覚えていらっしゃるかどうかはわかりません。
ただ、偶然のような組み合わせに、自然と想いを馳せてしまいます。
父であれ、その方であれ、やはり別れは辛いです。
ただ、別れは、必ずやってきます。
だったら、その「最後かもしれない」瞬間をどう過ごすべきかを、いまでは真剣に考えるようになりました。そう言った意味では、別れもとても大切なことなのだと、少し思えるようになりました。
しばらくのあいだ父のことで泣くことはなかったのですが、今回思い出しながら書いていましたら途中で号泣してしまいました。やはり、というか、あのときの記憶は辛いことでしかないということかもしれません。でも、振り返りをして良かったのかもしれません。改めて自身の感情を確認することができましたから。そして、今後はどうしていくべきかを考えることができましたから。
理不尽な別れや不本意な別れなど、この世界にはごまんとあります。むしろ、それらが別れのすべてと言ってもいいかもしれません。良く聞くことばで「何事にも感謝する」という人がいますが、そのような姿勢はつい最近まで受け容れることはできませんでした。かえって反発するのがせいぜいだったのです。ひとことで言えば「おまえが言うな」という感じでした。感謝感謝だと言っている当人が、冷徹な言動を起こすなんて本末転倒じゃないか、と。
ただ、この考えは「ほんの少し」変わりました。
まだ、相手の言動を認めることはできていませんが、その頃から比べると自分自身が大きく変わってきていることを実感しています。その変化の根源を辿ったときに、源流のひとつが「そこ」にありました。言い返せば、そのような出来事がないままだとしたら。ブログも、ガラクタ整理なども、やっていなかったかもしれません。
正直「今に見てろ」という気持ちで現在もやっています。
その気持ちを抱くことは、ひょっとしたら「そぐわない」かもしれません。しかしぼくはそれを「原動力」にするしかありませんでした。そうしなければ、ぼくはまた生きることを放棄しようとしていたでしょう。今でも時折顔を見せる闇がいますが、いまと前ではその対応に180度の違いがあります。
つい昨日だったか、数日前だったかは覚えていません。が、色んな「源流」があってこそ、現在があるのだと今更ながらに落とし込めたとき。まんざらでもないな、というか、決して感謝というレベルではないのですが、多少なりとも受け容れることができるようになりました。それは拒絶という姿勢からの解放を意味します。それは同時に、しっかりと自分自身を「見た」結果だと言うこともできると思います。
そんなこと考えるなと怒られてしまったことがあるのですが、父が生きた年齢まであと数年というところまで、ぼくも追いついてきました。変な指標ですが、「父が生きた年齢までは最低限生きる」というものを密かに持っていました。いまはそこまで意識はしていませんが、感慨深いものを感じます。
もし父が生きていたら、と思うことは今でもあります。
一緒に酒を呑みたいとか、子ならば思うところはいくらでもあります。
それらはもうできませんので、命日のきょうくらいは、子のわがままに付き合ってもらおうと毎年思っています。
きょうの札幌は晴れでとてもいいお天気でした。
気温も少し高かったので、雪まつりの雪像には厳しい環境だったかもしれません。
ぼくはこの先、どれほどの出逢いと別れを経験するかはわかりませんが、思うことはその両方とも後悔しないようにしていきたい、ということだけ。
その姿勢を貫くには、コミュニケーションの要のひとつとなる「ことば」が重要になってきます。
その他にも大切な要素はたくさんありますが、ぼくは一生を掛けて、ことばを磨き上げていきます。
それが、務めだと考えています。
父と。