つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

孫で、よかった。

そんなに日が経っていませんが、この時点で祖母に対しての気持ちを残しておこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月に入ってすぐ、叔父から連絡がありました。そのときの内容は、祖母の血圧がかなり下がり、その日の夜が峠であることを医師から告げられた、ということでした。このときは薬を投与したため血圧も安全圏内まで戻ったとのことで叔父夫婦は帰宅したとのことですが、今後は自然に任せたいという意向でした。だからもし時間があればという話を、ぼくにしてくれました。

 

そのとき実家は連絡が取れていなかったのでぼく宛に連絡をしたそうで、この件についてはぼくが窓口になりました。翌日以降の予定を取りやめ、各所に連絡した後にこの日はただ願いながら眠りにつきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電話があってもわかるようにしていたのですが、着信に気がつくことが出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝起床し、急いでスマホを見ると、着信がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

時間は、午前6時前でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意を決して、電話をかけました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくコール音が鳴った後、叔父の奥さんが電話に出られました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いま、ばあちゃんと帰ってるよ」

 

 

 

 

 

 

 

祖母は、早朝にひとり旅立ちました。

 

99歳。さいごまで立派に生きた、とのことでした。

 

 

 

 

 

叔父の自宅に戻った後に予定などが決まるため、また後で連絡するという流れとなり、いったん電話は終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待ってて欲しかった。

 

でも、間に合わなかった。

 

 

 

 

 

悲しみをこらえながら実家に電話しました。

 

数回コール音が鳴ったあと、母親が電話口に出ました。

 

 

 

 

 

なんとか気丈に、しっかりと、物事を伝えようとしました。

 

伝えようとしたんです。

 

 

 

でも、無理でした。

 

電話口で、ことばにならないほどに、泣き崩れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母は、ただ「仕方ないでしょ」とぼくを諌めました。

母のほうは、もうずっと前に覚悟をしていたようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祖母は現在の宮城県にある亘理町の出身です。

おそらく祖父の仕事(大工でもしかも今でいう1級建築士)の関係で北海道に来たようです。

 

祖父母が北海道で生活した場所は、栗山町でした。

現在は北海道日本ハムファイターズの監督である栗山英樹さんが住居を構える場所でもあります。

 

 

 

 

 

ぼくが物心ついたときには、父方の祖父母は既に他界しており、ぼくのおじいちゃんとおばあちゃんはイコール母方の祖父母となりました。

 

小さい頃からよく栗山の家には連れて行かれており、よくそのまま置いてかれた(笑)そうです。ぼくの記憶では「置いてかないで~」と母親に向かって泣き叫んでいる記憶があるのですが、ばあちゃんが言うには「ばあちゃんと離れたくなくて泣いていた」とまったく逆の話しが出てきました。

 

そして、ぼくはよくばあちゃんにおんぶをせがんだそうです。

 

 

 

最後に見舞いに行った際に、ばあちゃんは嬉しそうに話していたのを思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

じいちゃんが先に亡くなってから手術しなければならない事態となり、入院後は家に戻ることが実質不可能となってしまったため、入院生活がずっと続きました。その後ホームに入居しますが、その後また疾病を重ねてしまったため場所を転々とします。

 

つい最近の話しでしたが、食欲がなくなったという話を母から聞かされたことがありました。それを担当の看護師さんは「食の寿命」と表現しており、ひとつの境目の基準として仰っていたそうです。その後食欲は復活し、一時期は食べさせてもらっていたのですが、最後は自分で食事を口に運んでいただいていたそうです。このバイタリティには正直驚きました。しかし、病院のご飯はまずいそうで(笑)、いつも「まずい、まずい」と言っては全部たいらげていたとのことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出話をするときりがないのですが、きょうは最後にひとつだけ。

 

 

いつもばあちゃんに叱られたことがなかったぼくでしたが、一度だけ、諭された、または叱られた、もしくは諌められたことがありました。

 

それはまだ結婚前のことで、月に1度栗山の家に泊まりに行き、雑用を手伝っていたときがありました。

 

 

 

冬。

 

 

 

その冬は雪が多く降っており、車庫の上にもたくさん雪が積もっていました。

 

ぼくが泊りに行った際、じいちゃんが車庫の雪下ろしをしてほしいとのことだったので、車庫の屋根に上って雪下ろしをすることになりました。

 

 

雪は結構な高さまで積もっており、屋根に上ったのはいいのですが、雪を下ろすにも一苦労です。この時期結構ニュースになりますが、雪下ろし中の転落事故は足場がよくわからないまま雪下ろしを続けてしまい、結果転落してしまうというものが大半です。

 

命綱やヘルメットを装着するのが安全対策の基本ですが、そんな対策は当時何もせず(汗)今思うと冷や汗ものですが、こちらが四苦八苦しているのを知ってか知らずか、じいちゃんから矢継ぎ早に指示が飛びます。

 

 

 

 

これが、けっこう無茶ぶりなのです(大汗)

 

要するに「もっと下ろせ」。と。

 

 

 

 

「危ないから」

「もっと下ろせ」

 

 

 

このやりとりがエンドレスです(汗)

 

 

 

 

 

 

ついにぼくは、じいちゃんに歯向かいました。

 

怪我したら、元も子もありませんから。

 

 

 

 

 

この後の記憶はあまり残ってないのですが、その後じいちゃんと話すことはありませんでした。

 

 

 

 

しかし。

 

 

 

 

その一部始終を見ていたばあちゃんが、ぼくを叱りました。

 

その内容は忘れてしまいましたが、はっきりとばあちゃんがぼくを「やさしく叱った」ことだけは、しっかりと記憶に残っています。

 

 

 

 

いつもは口げんかしかしていないじいちゃんとばあちゃんでしたが、ばあちゃんの意外な一面にぼくはとても驚きました。そしてそれは、じいちゃんへの申し訳なさに変わりました。

 

 

 

 

 

 

結局、じいちゃんには面と向かって「ごめん」を言う機会もなく、じいちゃんが亡くなってしまいます。

 

ぼくはその「ごめん」を言うことが出来なかったこともあり、ひどく後悔していました。

 

 

 

 

その後、何かのタイミングで「じいちゃんわかってくれたかも」ということがあり、それ以上引き摺らないことにしていましたが、ばあちゃんが亡くなったことで、とても大事な思い出のひとつが呼び起されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葬儀は家族葬となったため、参加できる親族しか集まりませんでした。

 

それでも、祭壇はとても立派なものであり、ばあちゃんを送り出すには申し分のないものでした。

 

 

 

 

 

実は、ばあちゃんが亡くなった翌日、先に栗山町に逢いに行っていました。

 

 

 

天気は変わりやすく、途中「ホワイトアウト」現象も起こったため、かなり慎重に車を走らせました。

 

そして札幌から2時間以上の時間をかけて叔父宅に到着し、ひととおりの挨拶を済ませたあとに、ばあちゃんに逢いました。

 

 

 

 

 

 

ばあちゃんは、眠っているようでした。

 

この表情だけで、すべてが事足りました。

ばあちゃんはもう既にそこにはいないはずなのですが、その表情だけですべての説明というか、ばあちゃんの気持ちが伝わってくるようでした。

 

 

 

無論、ここでも、声をあげて泣きました。

 

でも、ふしぎと「逢いに行けなくてごめんね」ということばは、まったく出ませんでした。

 

感謝のことばしか出なかったのは、今思ってもふしぎなことです。

 

 

 

ばあちゃんの頭をそっと、優しく撫でました。

赤ちゃんがすやすやと眠るような表情をしていたのです。

今にも起きてきそうな佇まいでしたが、残念ながらからだは既に冷たくなっていました。

 

 

 

 

 

ばあちゃんに挨拶を済ませたあと、叔父夫婦にご飯をご馳走になりながら、最期のようすを聞かせてもらいました。また、今まで知らなかったばあちゃんの話しも、聞くことができました(どうやらばあちゃん、一時期たばこ吸っていたらしい。しかもキセルで 汗)。

 

 

 

当初、叔父はここまで来るのも大変だから来なくてもいいと言っていたのですが、たぶんぼくがいちばん取り乱すからと(汗)説明し、前もって弔問に訪れることを承諾してもらいました。

 

火葬場でも結局大泣きしてしまったのですが、先にばあちゃんとゆっくり話をすることができたと思っているので、結果としては良かった、と思うようにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葬儀から、一週間以上が経過したいま、改めてばあちゃんとの思い出を思い返すだけでも、未だに大粒の涙が溢れだします。

 

理由はぼくは大がつくくらいのばあちゃん子と自負しており(汗)、親孝行ならぬばあちゃん孝行は出来るだけしたいと考えていました。

 

 

 

その想いに到達点はないため、結局は後悔が多少残ることになりましたが、じいちゃんのときとは異なり、最後まで感謝のことばを伝えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばあちゃんの話をしたとき、いままですっかり忘れていたばあちゃんの家(思えばなぜかばあちゃん家と言っていた)の外観や内部がはっきりと想い出されます。ここにあれがあって、そこにこれがあってと、かなり細部まで今でもはっきりと目に浮かばせることができます。

 

 

 

大人になって車を持ち、それから幾度となく栗山の家に泊まりに行きました。

 

家に着くなり、ばあちゃんが「オロナミンC、冷蔵庫に入ってるぞ」と飲み物を勧めたことを、ふと思い出しました。

 

時折冷蔵庫に入れるのを忘れており、冷えていないオロナミンCを出されることもありましたが(笑)、ぼくにとってオロナミンCは、ばあちゃん家の味となっています。

 

 

 

会社が入っているビルの自販機にある、栄養ドリンクの中で、よくオロナミンCが売られており、よく購入していたことがありました(おごらされていたこともあったっけか)。

 

会社勤めをしていた頃、特に考えもせずオロナミンCを購入していましたが、血筋と言うか、何かがしっかりと受け継がれていたことに、笑いと、そして誇りのようなものを感じ取りました。そしてまた、オロナミンCを買うようになりました。ぼくにとってのエナジードリンクは、このオロナミンCだと、改めて肝に銘じたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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 思い出の味。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、ぼくの中での夢想(想像)のはなしをして終わりたいと思います。

 

 

どのタイミングでかは忘れてしまったのですが、ふとこんな感覚を覚えました。

 

 

 

 

 

それは、祖母が「上」からこちらを見ていること。

そして、葬儀とその後の親族での会話を見ながら、祭りのように楽しんでいること。

本人としては、一応事態を理解しているような感じです。

こちらに対して、特別何かを心配する様子は、まったくありませんでした。

 

 

 

 

そして、意外だったことは。

 

少なくともぼくが見た祖父母夫婦の光景は、口を開けば口論しかしていなかった。

だからだという訳ではないけれど、ばあちゃんをいじめるじいちゃんが許せない時期があった。だからじいちゃんに対して歯向かったという経緯があるのだけど、当のばあちゃんの気持ちは聴いていなかったし、じいちゃんの本音も知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

ぼくが見た(と思われる)光景は。

 

 

 

じいちゃんが、ばあちゃんを「迎えに来た」光景でした。

 

しかも「やっと来たか。ばかもんが」とか言ってる始末。

 

それに対しばあちゃんは、満面の笑顔で返していました。

 

 

 

そして、ふたり手をつなぎ、歩き始めた。

 

その、ふたりの後ろ姿を見ると、これまで見たことのない、最高の夫婦のカタチに見えました。

 

 

 

 

 

 

これを感じたぼくはひとこと。

 

じいちゃん、おいしいとこだけ持ってくな!

 

でした(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上で、先日不意に訪れた「別れ」について書き遺しました。

 

本来であれば、残す内容としてはそぐわないかもしれません。

それでも、残すことを決めました。残さないと、とも思いました。

 

 

 

 

 

 

今更の話しですが、あの時が「最後だったとしたら」という後悔というか、詰まる気持ちのようなものがあります。

 

数年前から、近しい人との別れを繰り返し経験しています。それは死別であったり、強制的に切り離される結果となったりと、様々です。

 

もし、あの日のあの会話が「最後」になるのだとわかっていたなら。

 

 

 

どのようなことばをかけるでしょうか。

どのようなことをしてあげたいと思うでしょうか。

 

改めて、「その人を想い、伝えていくこと」の大きさを、学びました。