光も闇も、味方であり敵である。
きょうの新聞記事を読みますと、函館の累積積雪量が五メートルに届く勢いとなっており、観測史上2番目の多さだということを知りました。
ホテルの駐車場から見た函館駅のホーム。
道路はガタガタ、またはぐしゃぐしゃっとしており、主要道ですら悪路の区間があります。踏切に関しては一時停止をする関係からか、線路をわたる際に段差が出来てしまっていました。このままいきますと、立ち往生してしまう車が出てしまうかもしれないと心配になりました。
高速道路は吹雪や悪天候が起因の事故による通行止めをよく行っています。この冬は、厳しさを増しているようです。
写真は函館に向かう途中の一般道でトンネルの中を走っているのですが、何故か真っ暗です。通常であれば、照明がついているはずなのですが、この日は非常灯のみついていました。停電が起きていたらしく、闇に引き込まれそうで少し嫌な感じがしつつも、珍しい体験をしました。
闇、といいますと、よくない印象を持ちます。正義か悪かと問われれば、悪だというひともいると思います。
だとしたら、この闇は、退治しなくしていく必要があるのかと考えてみますと、闇をなくしてはダメなのだということが見えてくる。闇は嫌だ、でもなくなっては困るとなりますと、どのように捉えていけばいいのか。何となくですが、今後はいっそう闇をしっかりと見つめていく必要を感じています。
闇に堕ちる、という表現があります。
悪に染まるとか、巣くいきれない状態にまで落ち込んでしまうことを指す場合が多いと思います。では、光にはそれがないのか?と、ひとり考えていました。そこで考えた表現は
光にのまれる
となりました。
いずれも、その世界に浸かってしまう状態はあるんじゃないかということを仮定して、このような表現を当てはめてみました。つまりは、闇にいたら救えない場合もあるし、光にもそれは当てはまると伝えたいのです。単純に言えば、光にいるから大丈夫、では、ないということです。
本質は、闇だろうが光だろうが、そこには救いのエッセンスは含まれているということ。それに気づくには、自身の努力が不可欠だということ。祈ることだけに執心してはだめだということです。
いまだに、若い世代の悲しいニュースが聞こえてきます。与えられた時間を全うすることなく放棄してしまう光景を思い浮かべますと、なんともいえない感覚になります。なぜ生きなければならないのか、なぜ途中でやめることを選択してはならないのか。ただ「ダメ」ということだけでは、その人の気持ちや「いまどこに佇んでいるか」を理解することはできません。正解はないのかもしれませんが、悲しい出来事をひとつでも減らしていくには、光だけではなく闇も理解していく必要があります。眼を逸らしがちなことほど、視界に捉えていかなくてはならないと考えます。
きょうまでで既に41年生きていますが、光と闇の際の一端をそれぞれ経験してきました。見える傷見えない傷はいまでも残っていますが、光に溺れることもなく、それぞれが自分のなかに常にあることを実感しながら、毎日を過ごしています。いい気はしませんが、感じて味わうことに努めることで、いまを精一杯過ごすことが出来ています。
いろんなことが原因で、闇は訪れます。それは光も同様です。いずれも、ずっと続くとは限りません。明けない夜はありませんし、夜は必ず訪れます。その仕組みはどうしてなのかをぼんやり考えながら、疲れた体を労っていました。