禍(わざわい)を転じて「もらう」癖をなくす意識を。
先週の金曜日ですが、一般道や高速道路、高規格道路が軒並み通行止めになったことで札幌へ帰ることが不可能に。
結果、もう1日函館に宿泊し、翌日午後に札幌へ戻りました。
そして今週も、函館におります。
融けたかなーと思っていた雪ですが、道路を見てみますとこれまた見事なアイスバーン。時折雪も降り積もる光景を目の当たりにしました。
春はもうそこまできているはずなのに…と思った瞬間でした。
先週の金曜日ですが、札幌に帰ることがなくなったため、時間一杯まで仕事。その後改めて取ったホテルへチェックイン。そしてこの日は近くへ外食しにいきました。
その日は会社から行動予定の確認連絡が入っており、帰れる可能性が低いことを予め伝えていたため、比較的早めにジャッジを行っていました。そのため宿の心配もありませんでした。 で、会社から粋な計らいを受けましたので、現場に入っているメンバーで食事にいってきました。
フリーペーパーで気になったお店だったのですが、結果大満足。思わぬプレゼントをもらったような気分になりました。
いつからか、こういった場所が好きになっています。飛び込みでお店に入るのはやはり抵抗がありますが、表通りに面した飲食店では味わうことのできない体験が待っているように感じます。この日は帰ることのできない禍に遭遇しましたが、それは新しい発見に繋がる福へと転じました。
そのほか、先週は
室内にある屋台でおでん
現場から車で少し走ったところにあるラーメン屋
など、徐々に函館の食を楽しむことができるようになってきています。それはときにわたしたちが定義する禍を発端とした出来事からつながっていく場合があります。
禍を転じて福と成すという諺がありますが、転じるという行動、または展開は、他の誰でもなく、自分自身が起こすものだなと考えています。そうしなければ、結果福が訪れてもそれを正しく認識することが出来るかどうかが不透明です。
また、現代は禍を自分ではない誰か、または他の存在が転じてくれることをひたすら待つ傾向が強くあります。もしくは、祈ることを行動のひとつと解釈し、妄信または迷信してしまうひとも未だ根強く残ってしまっています。
ひとことで言えば、それはダメなのだと思います。
理由を簡潔に話しますと、人間である身の者自身で行動し、変えていくことがこの世界に生きるものの使命のひとつと捉えているからです。神仏やら聖霊やらにすがってばかりというのは、自身の責任を放棄していることにほかなりません。この世界で生きること。それは、偉大なる存在にすがることなく生きていくこと。
いまはそんな風に考えています。
そんなぼくも、以前は自分の人生を悲観し、神仏などに頼った時期がありました。それがあったからこそ、そこに依存する習慣は整理していかなくてはならないと考えました。
習慣として残していくのはいいです。
依存することこそが、忌む側にある闇とつながることになります。
出張先の滞在が1日延びたことで発生したいろんな出来事から、そのようなことをひとり考えていました。