誰もが持って生まれてきた。
昨夜は呑んできました・・・が、途中に飲み慣れていないギネスを飲んだせいか調子が狂い、2次会に行かず戻ってきました。
きのうきょうと、路面はかなりツルツル。
歩く際には注意が必要なほどでした。
昨夜飲みに出る前までにとある番組を観ていて、その続きが気になったので録画しておき、本日その部分を視聴しました。
その番組は一般の方が歌のうまさを競うというものであり、どうやら既にシリーズ化しているようです。昔のスター誕生のような感じにも見えます。しかし審査員などは本気の布陣で、高レベルな歌唱を連続して聴く機会に恵まれました。
テレビに出て歌っていたのは、なんと小学生から高校生まで。
すべての出演者の歌に感動してしまいました。
ですがこの番組で「デビュー」が決まるという訳ではないようです。
それでも歌うのはなんでだろうと素朴に考えてしまいました。
しかしその答えは、出演者の方が語っていらっしゃいました。
それは「感謝」。
ただただ「感謝」だったのです。
要約しますが、出演者のコメントとして「歌えることに感謝」といったことを述べておられました。他には、「いつも応援してくれる方に応えたい」とも。
そう語られている姿を見ますと、「純粋無垢」としか言いようのない表情がありました。
つまりは、「そこで得られるもの」を何ら考えていないということなのです。
それは、大人には出来ないものなのだろうか、難しいものなのだろうかと思ってしまいました。
それは誰もが持っていた「はず」の感覚だと感じています。
具体的な見返りは求めず、純粋に歌うことの歓びを感じる。
昨日視聴した番組には、まさしく「ピュア」が広がっていました。
ですが大人になってしまいますと、何といえばいいでしょうか、「現実主義」が入り込んできます。
審査員の評にも、「持って生まれた才能をこれからも大事に」という言葉があったように、歌うことに没頭してきた出演者はみな、才能の持ち主であると言えます。小さいころはその才を絶賛するも、それを持って大人になりますと、違うものは入り込んできます。そうなってしまいますと、本来の目的からは幾分外れた道筋になります。
その事実に当人はいろいろと理由を後付けしては納得するといったイメージが強くあります。
今回の場合は「歌」ですが、歌をうたうには「声」が必要になってきます。
審査員の方がそれを「誰もが持って生まれてきているもの」と表現したように記憶しています。
審査員の方は、歌唱力という「才能」を評価していましたが、誰もが持っているものを「才能」にまで引き上げてきたことに対しての評価をされたのかな、という感覚があります。
では、この引き上げはごく一部の人にしかできないことなのでしょうか。
仮説ではありますが、全員が可能なのだと考えています。
そして、自身でその「才能」を感じることも大切なのだと感じました。そうでなければ、「感謝」の感情を導くことは出来ません。
よく大人が使う建前の感謝ではなく、ね 笑。
声を出すことができることに感謝。
手足を動かすことができることに感謝。
考えることができることに感謝。
世界を見ることができることに感謝。
想うことができることに感謝。
感謝できることに感謝。
ごくふつうに出来ることにこそ、感謝の礎がありました。
この姿勢を思い出したいなと純粋に想いました。
肝心の番組ですが、涙腺が緩いおっさんのため、1曲聴くごとに涙が 笑。
しかしながら、いい歌を聴かせていただきましたし、自身も歌いたいと思わせてくれました。
歌が届くというのは、「伝わること」と同義に想います。
ブログのタイトルにもしています「伝わる」「届く」を、これからもしっかりと「鍛えて」いこうと思いました。