午前中は牧場の仕事(牛の世話)。
午後は夕方から町民センターというところで映画を見てきました。
この映画上映は社会教育課の事業のひとつとして行われています。
通常の映画館ほどスクリーンは大きくありませんでしたが、久々に自宅以外で映画を観ました。
その劇中のことなのですが、神社に参拝するシーンが出て来まして。
演者のひとりがそこでお参りをするんですね。
それを見ていたもうひとりの演者さんがその方に「何をお願いされたんですか」と聞いたところ、返ってきた答えが「あなたに縁がありますように」というものでした。
続けてその演者さんがいったことは
「恋愛といった縁じゃないよ。これからの仕事や生活に対していろんなご縁がありますようにってことだよ」
ああ、そうだよなと思いつつも、やはり人間は自分の都合に合わせたおねだりしかできない、不器用な存在なのだなと感じました。
有名な、またはご利益があるとされる神社に行って何をするかと言いますと、やはり個人のあれこれといった「お願い」をして、それを「実現してもらうこと」につきます。
恐らくお願いをする人の大半は他力本願です。自分の努力は最小限にして、棚から牡丹餅的な強運をもたらして欲しいという無茶ぶりを神様に対して要求しています。
お願いをするのは決して良くないとは言いませんが、これを神前にお願いしたのだから、それにふさわしい自分になることが出来る様、しっかり努力しようといった気概と言いますか、決意のようなものがあってもおかしくないはずなのですが、どうもそこには辿り着かないようで。
恋愛成就
結婚
学業成就
仕事や出世
健康
などなど、特定のことをいろんな神社に行ってはお願いをしていることのなんと多いことか。そこには神話などの逸話があってこそのことなのですが、残念に思うことはお願いをする人それぞれが自分で「自分の可能性の範囲を狭めていること」を真剣にやっているのではないか、ということです。
だって、「ご縁がありますように」というのは、上に書いたことすべてを網羅していると考えたらどうなのでしょうか。
他のことがきっかけで、最終的な目標を達成するということもありえると考えたら。
最初から「恋愛」「仕事」など、特定のことのみに固定するのは、ちょっとずれてしまっているのではなだろうかと感じてしまいました。
とはいっても、ついつい個人的なことをお願いしてしまうのが人間の常。
もし、お願いばかりして、一向にそれが叶っていないのだとしたら、どこかで「やりかた」を変えていくしかないのかもしれません。
何がきっかけで思い描いていたことが実現するかは誰にもわかりません。
ただ言えることは、黙って叶うことは高確率で「ない」ということだけです。
叶えるには、自分の努力は必須条件であると、個人的な経験から述べておきます。