実は先週、緊急の設備点検を行っていました。
牧場内ではありますが、車+徒歩移動で20~25分といったところでしょうか。
周りには笹がびっしりと生えていました。
こういった、周りに自然がある(言い換えれば自然しかない)環境に自分の身を置いたとき、何を対象にしてみているのだろうか?と、時間が経過してから考えることがあります。
今や日常生活の中にネットは欠かせない存在で、SNS等を含めたいろんなツールが活発に動いています。そしてその中で流れてくる情報等に関して、人はあれこれとした意見を書き連ねていきます。ただこの中にはひとくくりにこうだと言えるものはだんだんと少なくなってきているように思えます。
テレビでもネットでも、誰かの発言に対して誰かが反応するという構図ですべてが進んでいきます。発端となった誰かの発言の信憑性はまた別の話にするとして、それを評価する声から疑問視する声まで、ほんとうに様々になりました。そして不思議なことに、そこから「世論」が形成されているという事実です。個人的にはその世論は世論なのかという思いがあります。
そこで気づいたのです。
「ひょっとして、自分を見たくないから他人を見てはいろんな反応をしたいのだ」と。
場所は変わって、牛舎近くの採草地に移動しました。
季節はもう秋~冬なので、草の成長もほぼないです。
夏場はここに鹿や熊が出没していました。
自分を見つめるという行為は、訓練であり修行であると思っています。
中にはそれを究めたという人も出ていそうですが。
個人的には、この行動にゴール、終着点はないと思っています。
だって人は日々変わり続けているのですから。
夕方には少し早いですが、本日15時ころの放牧地になります。
牛はもう放牧しておらず、牛舎内で生活をしています。
少し寂しい光景でもあります。
ぼくは昔、このような風景を「殺風景」と言っていました。
今は180度変わっています。
いつ見ても全く飽きない。最高の光景になっています。
それを変えたのは何だったのか?
根幹には「自分自身」があることは言うまでもありません。
どうしてもわたしたちは他の誰かの言動に反応してしまう日々を送っています。
それをわかっていながらも、つい反応してしまうという後悔があります。
そんなときはちょっとの間だけでも、見つめる対象を変えてはどうかと思います。
そうすることで、何かが少しでも変わるのではないかと思うのです。
牛はきょうも人間に興味津々でした 笑